脳死は人の死か?



37歳 女性 関根友実(発起人)の意見




  先日SMA(脊髄性筋委縮症)家族の会の人たちにお会いしました。(患者レポートはこちら)

会の人たちは、ドナー側、つまり脳死に近い患者や患者の家族の立場から「臓器移植法改正案」についてどう思うのかをメディアに聞かれるのだとおっしゃってました。

聞かれることに不快感はないのだそうですが、答えを求められると非常に悩ましいと語ってらっしゃいました。


「脳死だと判定されたわが子でも成長を続けたりする。


そんな姿を見ていて、少しでも長い時間、わが子の成長を見届けたいと思う気持ちは止められないと思う。

でも、わが子を失ったときに、もしもあの時、脳死を受け入れていれば、この子の臓器で救われた命があったかもしれないと、二人分の死を悼むことになるでしょう」と・・・

私は臓器の提供を受けられなかったばかりに亡くなっていった子供や遺族に心を寄せ、医学が進歩した以上は救える命は救うべきだとの考えからA案を支持していました。

その気持ちは今も変わらないのですが、こういう気持ちを抱えながらわが子が死にゆく悲しみにさらに覆いかぶさるように苦悩がのしかかる現実があるのだということを、私たちは心しておかなくてはならないと思うのです。

そのための議論がまだ、充分に尽くされていないように思います。

ドナーへのケア、移植を待つ人たちへのケア、脳死患者を看取る遺族への配慮など、様々な方への思いやりが大切なのではないかと思います。

脳死判定された患者のご遺族にドナー提供を申し出る救命救急医のケアも大事です。

まだ死を受け入れがたいご家族に、臓器の話をしなくてはならないわけですから、時として相当辛い目に遭う可能性があります。


これも、どちらの立場も分かります。


今回の苦しさは、どの立場の人の気持ちもわかるのだというジレンマなのだと思います。

医療の進歩が生み出した選択肢は悩みを深くしました。

しかし、こうやって悩むことこそが大事なのではないでしょうか。

そして今回の議論が、自分が当事者であればどういうスタンスを取るのか、思いを馳せることの大きなきっかけになれば良いと思います。



可決されたA案について



35歳 女性 らすかる(発起人)の意見





はっきり言います。

私の中でこの問題に対して答えは永久にでないと思います。

移殖を待つお子さんをお持ちの親御さんの立場でのVTRが流れると、
自分の子供がもし心臓移植を必要としている状態だと想像するだけで

胸がしめつけられて息がつまります。


または、反対の脳死と判断された状態のお子さんをお持ちの親御さんの立場でのVTRが流れると、
自分の子供がもし脳死宣告をされているとしたらと想像するだけで


胸がしめつけられて涙が出ます。

移殖を待つお子さんにも、脳死状態でも身長が伸びたり髪の毛が伸びたり、爪を切ってあげたりできるお子さんにも思い出があります。

決めなければいけない国会議員の方々の気持ちを想像しても

これまた胸がしめつけられます。

これが自分自身に起きたことなら、間違いなく臓器提供してほしいと思いますし、臓器提供のカードも持っています。

しかし、家族が今まさに目の前で消えそうになっている愛する家族の命の灯火を消すことにつながる


「どうぞ臓器提供してください」


と言う言葉を、私はその時にだせるかどうか分かりません。

自分の家族が死ぬんだ、または、一生起きてはこれないんだという大きな現実を受け入れられずにいる状態の時に、このままこの肉体はなくなってしまっても、この人の心臓は(または他の臓器は)他の誰かの体の中で生き続けていってくれるんだと思えるのか自信がありません。

実際、私はある日突然父を脳幹部の出血で亡くしました。

父は長年糖尿病を患っており、透析を始めた頃に余命5年と宣告されて、その時点で8年目に突入しておりました。

もはや、体はボロボロでいつどうなってもおかしくない状態が何年も続きました。

しかし、父は話すことも食べることもできました。

そう、普通に生活をしていました。(後半は足が壊死してしまい、歩けなくなりましたが)

で、突然ご飯を食べながら倒れてそのまま逝ってしまったのです。

その時に脳外科の先生に、延命治療をしても、数日しかもたないと言われたので、病院で父が息を引き取るのを待つという状態になりました。

父は病院に着いてから8時間後に亡くなりました。

その時は、お葬式の手配や親族への連絡などで私も母も妹もバタバタとしており、49日も終わった頃でしょうか・・・

「お父さん、心臓だけは丈夫やったから、せめて心臓だけでも誰かに提供したらよかったなぁ。」と私がつぶやくと、母も「ホンマやわぁ。提供すればよかった。」というやり取りがありました。

これなんです。

臓器提供をする意思があっても、そのピンポイントでは考えがそこまで回らなかったのです。

これが、15歳未満の自分の子供のことなら尚更だと思います。


脳死状態で生きておられるお子さんではなく、あと数日しかもたないという状態の子供を目の前にしたとして、そこまで考えが及ぶのか?


または、医師側から提案があったとしても、自分で自分の子供の命日を決められるのか・・・


なので、私はこの問題に関しては永遠に答えは出ないのです。

重くなってすみません。

だけど、

わかりません


というのが、私の正直な気持ちです。





ドナーが現れるということ



50歳 男性 Antian(オトン会員)の意見





10年以上前のことです。

 当時、デスクをしていた夕方のニュース番組で、海外での臓器移植に向かう子供を取り上げました。

移植でしか助からない。このままでは命はあとわずか。

でも日本では移植はできない。

支援者から募金を集めて、その子供は両親と一緒にアメリカに行きました。

VTRが終わって、キャスターはカメラに向かってこう言いました。


「早くドナーが現れるといいですね。」



 何気なく語ったこのコメントが問題となり、報道部内で論議になりました。

その子供の立場から見れば、ドナーが現れて移植が出来ない限り、命は助かりません。

 ドナーがなかなか見つからなければ、滞在費もかさんでいきます。
 
 募金で集めた資金では足らなくなるかもしれません。


 
 とすれば、早くドナーが現れて欲しい・・・と誰でも思うでしょう。



 しかし、ここで想像力を働かせて下さい。

 ドナーが現れるということは、誰かが脳死になるということ。

 誰かが死ぬということです。

 しかも、移植に使える臓器をということなら、不慮の事故や事件など、それまで元気だったどこかの子供が突然、命を失うケースです。

 ドナーを待つということは、それを期待するということなのです。

誰かの不幸を期待する・・・それが脳死移植なのです。

 だとすれば、キャスターのコメントは適切だったのか・・・。

 

 あれから長い時間がたっています。その後、臓器移植法が成立。さらに今、その法律が改正されようとしています。

 
 果たして、この間に私たちの間で、議論は深まったでしょうか。

 こんな偉そうなことを書いている僕自身、今だに判断は定まりません。

 命を救うためならどんな手段も許されるのか・・・という思いがある一方、身近な人間が「移植すれば助かる」と言われれば、やはりそれにすがりたくなるに違いありません。

 「脳死は人の死か」

賛否はどちらにしても、もっと皆が迷いを語り合い、様々な意見に耳を傾ける機会と時間が必要ではないでしょうか?

 それを経ずに法律が変わってしまうことには、不安を感ぜずにはおれません。





先生、初めからお願いします。


38歳 男性 みたしん(発起人)の意見


現在、臓器移植法改正案のことで、各メディア媒体が法案の中身をいろいろと紹介したり、議論されたりしています。

しかしながら、脳死判定基準についてはあまり詳しく紹介されません。

現行の臓器移植法が成立するときに、たくさんやったのでしょうが、やはり、私のような者にはもう一度、脳死判定について詳しく説明してもらえたらなぁと思い、何度もテレビで報道番組を観ています。

しかしながら、この問題へのアプローチは、小さな子が自分の命を繋ぐために、臓器提供を待っている映像、その家族の願いが映し出され、また、一方で、脳の活動が停止しながらも、体は一生懸命に命を刻んでいる映像、そしてその家族の深い愛情が映されます。

そして、「どの法案がいいと思いますか?」との議論に入っていきます。

私はいま30代後半で、どちらの親の心情にもシンクロしてしまい、判断することはできません。

やはり、どの法案かの前に「脳死とは何か?」ということを考えなければならないのだと思います。

医療関係者や患者のご家族、政治家の方々、マスコミの方々は、当然そんなこととっくに情報も知り、深く考えて、今、決断する時なのかもしれません。

しかし、私は恥ずかしながら、いつか脳死について、それは人の死なのかということを考えなければならないとは思いながら、何も深く考えず今日まで来てしまいました。

そこで、ぜひ、「脳死判定基準」がどれだけ慎重に行われ、何をもって「脳死」となるのかを各メディアの皆さんにもう一度紹介していただきたいと思います。

ここからは私の無知無学をさらけ出すことになるかもしれませんが、私は、「脳死」というのは「脳死状態になってしまうと、どれだけ他の臓器に手助けを行ったとしても、心停止になってしまい、二度と回復することはない」のだと思っていましたし、今も思っています。

ところが、どのテレビ報道を観ても、もうそのことは昔のことなのか、ほとんど全く触れてくれません。

私は今からなのです。

しかしながら、テレビで報道される患者さんは私のイメージする脳死とは違い、手助けをすれば、生きておられるのです。

そうなると、私は生きていると思います。

では、無知無学の私が漠然とイメージしていた「脳死」というのは違うのでしょうか?

もしくは、私のイメージしていた体のほうもすぐに死んでしまう「脳死」は少数なのでしょうか?

今のマスコミの報道を見ていると、その辺の比率が分からないし、私などは自分イメージしていた比率とは逆じゃないのかと感じてしまいます。

細心の注意と検査や手続きが踏まれ、いったん「脳死状態になってしまうと、どれだけ他の臓器に手助けを行ったとしても、心停止になってしまい、二度と回復することはない」というのであれば、私は脳死を人の死だと思うかもしれません。

まだわかりませんが。

しかし、手助けをすれば半年、一年と生きられるなら私はそれは死ではなく生きていると思うかもしれません。

まだわかりませんが。

そういった意味で、

 医学における「脳死判定基準」ならびにそれがどれだけ慎重に丁寧に行われるのか、

 また、どれくらいの比率で長期脳死状態になるのか、現代医療は脳死判定段階で長期脳死状態になることが

 
 どれくらいの確率で断定できるのかを、私はメディアでもう一度、積極的に取り上げていただきたいと思います。

そうすれば、脳死とは何かを理解し、法案についても考えることができるかもしれません。

私はこの臓器移植法改正案の問題に関しては、医療関係、行政、政治化、メディアなどが国民にどれだけ、基礎的なことや初歩的な情報まで良く知らない分かってない国民に丁寧に伝えられるかだと思います。

国民投票をしてもいいくらい、われわれ日本人の死生観について重要な問題だと思います。

テーマが大きい上に、重大なものですので、私の考え違い、表現の間違いで誰かを傷つけるようなことがありませんように。

そのことを心から願いまして、私の今考えていることをブログに投稿させていただきました。

授業中、本当に一番最初の大事なことを聞き逃して、分からなくなった生徒のように、勇気を出して聞いてみようと思います。


「すみません、先生が一生懸命おっしゃっていた大事なことを聞き逃しました。

                                  先生、もう一度初めからお願いします。




得心がいく過程


58歳 男性 在るがままにおじさん(オトン会員)の意見



今の私には、「脳死は人の死である」と断定する自信はありません。

少なくとも心臓が動き、体に温もりのある人を、脳の機能が停止している事だけで「死んでいる」とは中々納得できないと思います。

 この設問は、臓器移植をどう捉えるかという問題につながっているはずです。

臓器移植の為には出来るだけ新鮮な(とても生々しい表現ですが)臓器を必要とし、

いわゆる死亡の確認手段を行う為の心臓、肺、脳の機能停止の条件が満たされる事を待たなければならないとすれば、


臓器の移植は、極めて困難になるという命題を抱えているのでしょう。


 ドナー対象者とその家族の承諾があれば、臓器移植を必要としている患者さんがいる以上、立法化は必然であるという考え方も理解はできます。

 特に、海外でしか小児の臓器移植が出来ない現状が、法律の整備によって国内で可能になる事は、そのご家族にとって光明だろうと思います。



 ただ、今の私には、私自身だったら、私の家族だったらどうだろうかという問いかけでしか考えられません。



 私や家族が、臓器移植でしか延命の道はない・・・、


 そして生きたい、生きさせたいと


思ったとしてもその為には、他人の臓器をお願いしなければならない・・・、

結果として他人の「脳死」を待つという事実にすんなり向きあえる事ができるか!?


というとその時になってみないと分からない、少なくとも現時点では、その選択はしないであろうとしか言えません。

 
人は、生まれた瞬間から死に向かって生きていきます。


その命の長さは、きっと人間には決められないのだという思いが私にはあります。


臓器移植が行われるにあたって「脳死は人の死である」という前提しかないのだとすれば、それを全面的に否定するものではありませんが、

「あ〜ほんまに亡くなったんや・・・」と“得心がいく過程(時間も含めて)”が無ければ「脳死」というだけでは、その死をそのまま受け入れられないのではないかというのが正直な思いです。



実体験に基づいて


73歳 男性 宝塚青春組組長(オトン会員)の意見



 今回、衆議院でA案が通過して国民に再度「脳死が死に到るか・・・?」の議論が再燃した事は歓迎すべきと存じています。

 10数年前に臓器提供法案が成立する前にも色々な立場からの声が集約され、一大国民論議を呼びました。

 「死」について論議する事を避けてきた私達はその際、メデイアで、家庭で、職場で、論議されたものです。
 誰もが避けられない「死」を自分の事と捉えたときに自らの意思表示が出来るものと思います。


 当時、私は定年後「介護福祉士」の資格取得を目指し、介護福祉専門学校にて勉強中で若い人と交じり、医師・宗教家の講義を聴いたり、サークル研究したり、論議したものです。

 私は法案通過後添付写真の“臓器提供意思表示カード”を貰い、肌身離さず持参して今日に到ります。

 裏面の日付は1998/10/4 本人署名・家族署名の他、内容は@脳死の判定に従い「心臓」「肺」「肝臓」「腎臓」「すい臓」「小腸」を提供しますA心臓が停止したとき「腎臓」「角膜」「すい臓」を提供しますと記入されています。


 2003・6月に「脳梗塞」で倒れ、右脳「穿通枝」に血栓が詰まり、現在左半身麻痺の後遺症に悩まされている一部脳死体験から申し上げると「脳死」は全く「人の死」に繋がると確信しています。


 左上肢・下肢機能全廃は「脳塞栓」にて左運動機能を司る脳が死滅して再生しない事に起因しています。

 辛うじての歩行は幸い死滅を逃れた「前頭葉」の生きたい、歩きたいの旺盛な意欲で命令の届かない筋肉を無理矢理に動かしているだけです。

 「脳死」を考えるにはその人の今の人生、生きてきたその人の人生に大きく関わる事でしょうね。



救える可能性のある命を救うことを第一義に


48歳 男性 しんきち(オトン会員)の意見



 脳死の問題を考えるときに、まず自分の立ち位置を決めて考えることにします。

 二つの位置から考えます。 一つは、「国は(政府は)国民の安全と命を守るものである」ということ。

 もう一つは、なんの治療法もまったく持たない難病患者としてということ。

 脳死移植の今の状況は15才未満の脳死者からは臓器提供を認めていません。
 
 大人の脳死者からの臓器提供では臓器の大きさが合わないので、日本国内では15才未満の患者への脳死臓器移植は行われておりません。 つまり、有効と思える治療法があるにも関わらず、15才未満の患者さんは日本国内では治療が受けられない状態です。

 しかもその状態が国の法律で決定されてしまっているわけです。

 救える可能性のある15才未満の子どもの命が救われない状態を国の法律でつくっ てしまっているのです。 この状況がこれからもまだまだ続いていくのはどこか釈然としない思いがあります。


  救える命はしっかりと最善を尽くして救ってください。


 臓器移植に関する日本の医療水準は世界に誇れる水準があります。

 脳死の判定を受けるか受けないかの判断をするのは患者または家族が判断し、脳死で臓器提供をするかしないかの判断も患者または家族が判断できればよい。
 臓器提供の暗黙のプレッシャーを家族が受けてしまうという懸念があります。

  似たような懸念は家族・親族間の肝移植や生体腎移植、骨髄移植などの場面でも起こりえます。 実際にプレッシャーを感じるという声もあります。

  このあたりは移植コーディネーターといった専門職の人材を増やすことで対応可能かなと考えています。

  また、脳死となった子どものうち虐待されて亡くなった子どもとそうでない子どもとの区別が難しく、虐待を見逃してしまうのではないかという懸念もあります。
  そういった悲劇的な事柄が起きてしまうまでに、日常的な虐待の場面を見過ごしている学校・幼稚園・保育園、町のお医者さん、児童相談所や福祉事務所などの担当部署ほうが問題なのであり、そこまで至らないうちに周りの大人たちが対応できるようにしていくことが必要でしょう。

 また、移植後に検証する機関をシステムとしてつくる必要はあると思います。

 子どもの持っている生命力には驚かされるところがあり、脳死判定基準にそのときに当てはまったからといって回復がまったく見込めないかというときわめてまれな例ですが、その後に脳死判定基準から外れてくる状態になる子どもがいるようです。


  これは、現時点の人類の持つ医学水準の限界と言わざるを得ません。


 もっともっと研究が進み、医学水準が高まることを期待するしかないように思います。

  治療の可能性を優先して信じて、救える命を救う方向に舵を切ることになるのかなと思います。 完璧な脳死判定基準ではないからといって、このままの状況で立ち止まってしまっていいとは思えないですし、ましてや後戻りすることは違うんだろうと思います。

  脳死による臓器提供を「資源」ととらえるような形で話を進めてはいけないのはもちろんです。



途上国の臓器売買の実態とは


32歳 女性 マキ(オカン会員)の意見



  衆院で「臓器移植法改正案」のA案が賛成多数で可決。いよいよ 今週26日にも参院で、このA案と対案の「子ども脳死臨調 設置法案」が審議入りしそうです。

 突如として騒がれ出した重要法案の審議ですが、多くの国民が改正の是 非について、とまどったと思います。わたしも以前から臓器移植の問題 について関心はありましたが、今回の改正案にある「A案」、 「B案」・・・の中身、そして、何が焦点になっていて、何が議 論されているのかは、恥ずかしながら不勉強でした。一晩かけて、ネッ ト上にあがっているニュースや情報を読み漁りました。

  施行から十年以上も放置されていた臓器移植法を改正する審議のきっか けとなったのは、世界保健機関(WHO)が今年1月、「臓器移植 の自国内完結」を求める新指針の採択方針を表明したこと、また、昨年 5月に、各国の医師でつくる「国際移植学会」が自国外で臓器移植を受 けることを自粛するよう求めた宣言を採択したこと、にあるようです。 なぜ、国際機関や世界中の医師たちがこのような動きに出たのでしょう か。

 日本もそうですが、どこの国でも臓器ドナー(提供登録者)不足は深刻 な問題。ヨーロッパでは日本人患者の臓器移植を中断していて、米国に いたっては何億円という法外な支払いを要求し、事実上、日本人患者の 排除を行っているのが現状といいます。(あるテレビ番組の調べによれ ば、米国で億単位もする臓器移植手術を日本で行うことができたら、数 百万円単位で済むそうです)


 では、そうなると、どこに救いの手を求めるのでしょうか。中国やフィ リピンといった(経済的に)貧しい国に、です。


  日本人を含む外国人の中には、時に非合法であっても、大金をはたいて まで臓器提供者を探し続けます。
 
 貧しい国に行けば、「ひとの命はお金 で買える」のです。フィリピンや中国は臓器の調達先として世界中で知 られています。
 そんな中、フィリピン政府も黙ってはいません。自国民を守るため、昨 年、日本人を含む外国人に対する生体臓器移植を原則禁止しました。 フィリピンでは困窮ゆえ、2つある臓器の腎臓を売ってお金に換える国 民が多く、「非血縁者からの生体腎移植が腎移植全体の6割以上を占め て、外国人への腎移植件数が突出している」という背景がありました。

 以前、スモーキーマウンテンがあったスラムの代名詞であるマニラ市ト ンド地区などでは、秘密裏に、かつ公然と、臓器売買が行われている現 実があるのです。(たとえば、内緒で腎臓を売っても、子どもが学校に 通えるようになったり、新しい電化製品を買ったりできるので、そのこ とがすぐに近所の人たちに知れ渡ります) しかし、この「原則禁止」の反動で、今度は臓器移植を目的にした偽装 結婚が増加したんです。

 そこで、保健省は先月、「フィリピン人が外国人配偶者に対し、臓器提 供を行うことを一時的に禁止する通達」を出しました。同省管轄の臓器 提供移植委員会によると、臓器移植を目的とした偽装結婚を、外国人に あっせんする仲介業者が出始めているとの報告があり、結婚相手として フィリピン人女性がターゲットになっているというのです。


  まさに、生死をかけた、いたちごっこ・・・です。


 約1年前に外国人への生体臓器移植が禁止された時、ドゥケ保健相は 「常に貧しいものが虐げられる。臓器売買は倫理的にも問題で非難すべ きもの」と強く批判しました。しかし、現実には、抜け出せない極貧の 状態に置かれているフィリピン人は星の数ほどいるし、一方の臓器ド ナーも常に枯渇しています。悲しいかな、需要と供給が一致するのです。

  みなさんはどう思いますか? さて、4月に転職した私の手元には新しい健康保険証がありま す。

 裏面には、臓器提供に関する意思を表示する欄が設けられていま す。




1.私は脳死の判定に従い、脳死後、移植のために○で囲んだ臓器を提 供します。(Xをつけた臓器は提供しません) 心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、眼球、その他
2.私は心臓が停止した死後、移植のために○で囲んだ臓器を提供しま す。(Xをつけた臓器は提供しません) 腎臓、膵臓、眼球、その他
3.私は、臓器を提供しません。



 初めて保険証を手にしたとき、正直、かなりの衝撃を受けました。黄色 いドナーカード




の普及はあまりふるっていないと聞いてい ましたが、たいていの人が財布の中に入れている保険証の裏にその意思 を記されていれば、「ドナー」の不慮の事故の際にも対応できるという わけですね。

 すでに2か月経ちましたが、「提供するか否か」の答えを出せて いません。「ひとの命を助けたい」と思う反面、「臓器を他人に提供し たら自分の家族はどう思うだろうか」、日本人的思考かもしれません が、「臓器や体の部位を失ったら、成仏できるのか・・・」と悩み、保 険証に何も記せないのです。

 臓器を受け取る人、臓器を贈る人・・・。

 顔も名前も知らない人たちが 未来へと、命をつむいでいくという究極の思いやりについて真剣に考え ていきませんか。今こそ、「日本人が日本人を救える国」になれるよ う、前向きに議論する時代を迎えているのではないでしょうか。



眠ったままの少女が目覚める日は来るのか


32?歳 男性 ウッチー(オトン会員)の意見



みなさまはじめまして、大阪のオトンです。 といっても、子どもはいませんが。

脳死の問題に書いてねと言われて、悩みに悩みました。

合理的に考えれば、生きる確率の少ない脳死患者から、移植すれば生きることのできる患者に命のバトンタッチをする。

まったく正解だと思います。

脳死状態で生きながらえたって、意味がないやん。

それやったら、生きることのできる人にプレゼントしたらいい、正しいですよね。 正しいことを正しく実行させるために、政治や法律が後押しをする、これも正しいです、やっぱり。
でも、好きな人にはたとえ脳死状態であっても、生きていて欲しい。


生命維持ができるの、金のある人だけでしょって言われても。


そらそうだけど、でも金があれば・・・、生き続けて欲しい。 そんなことを考えながら、今作られようとしている法律、良く読むと。


脳死を一般的に人間の死と認定するというのではなくて、移植の場合の特例なのですね。
なんか変。
死んだんなら死でしょう、いつだって。

この気持ち悪さ、変ですよ。

眠ったままの少女。その少女に恋する少年。 やがて、少女も少年も大人になり、ある日、女性は目を覚ます。男性と女性は愛し合い、ちょうど一週間後女性はまた眠りにつく、そして二人は結婚し、男性は彼女の世話をしながら幸せな一生を終える。

題名は思い出せないのですが、手塚治虫さんの漫画に、こんな短編があったと思います。

美しい愛の物語。

彼女が脳死状態だったのかどうかは分かりません。 生命維持装置はついてなかったので本当に眠ったままなのでしょう、でも、なにも話さない眠っているだけの彼女との、感情交流。

もう何年もたちますが、嫁のお母さんが癌で無くなりました。
彼女は安楽死協会に入り、そのカードを持っていました。 死の前日まで普通に話していました.

最後に苦しみ、モルヒネを打つとき、なにかこれから植物人間になるようなことを思ったようで、これから何年意識なく生きるのかなあとつぶやきました。

人は、絶対死んでしまう。 これはあがないようがない事実です。

でも、できるなら、少しでも長く生きたい。生命体としての本能なのでしょうね。
臓器移植をしてまで生きたい、これも本能。

でも、移植を前提とした特例としての死の気持ち悪さ。

テレビなどでは、移植によって元気になった例ばかりか報道されています。


でも、ほんとのとこ、どうなのでしょう。
今回の法律が衆議院を通るまでは、漠然と、移植を待つ人のために脳死を死と認定したらいいのにと思っていました。

でも、よくよく考えると、判断するための資料を、少なくとも私はほとんど持っていないことに気づきました。

でも、でも、移植を待つ人にとっては待ったなしですよね。

でもが、頭の中をくるぐる回っています。

こんな時は、政治がえいやあと、一刀両断に決めてくれたら・・、いやいや、でもでも。 あかん、あかん、それは駄目です。


自分で考えなきゃね。勉強します。