関根友実の医療レポート


■神戸大学医学部附属病院 患者支援センター 専任医師・内科医 を訪ねて 2010.03.12

 神戸大学医学部附属病院に、「患者支援センター」という部署があります。
「病院完結型医療」から「地域完結型医療」へ大学病院自らがシフトし、地域医療連携を率先して推進していくことを目指し、このセンターが立ちあげられました。
地域の病院や診療所と大学病院の全ての診療科を結ぶ窓口としてのセンターの機能を果たすべく、
まずは大学病院と地域の医療機関を繋いでいこうと日々、神戸市内を駆け回っている神戸大学医学部附属病院の内藤純子先生にお話をうかがいました。

 「今、私が携わっている仕事は、普通の医者がしない仕事です。いうなれば『医療マネージメント』です。」
そう、瞳を活き活きとさせて語る内藤先生。大学病院と地域とのかかわり、診療所と病院とはどうあるべきか、患者目線の地域の理想の医療とはどのようなものかを真剣に考え、点と点を繋いで線にしながら、ひたむきに実践をされている方です。
内藤先生が、看護師や介護士、ソーシャルワーカーなど、いろんな職種の人達と話をすればするほど、医療・看護・福祉の世界の中ではそれぞれの専門家がぶつぶつ切れていて、繋がっていないことを実感されるそうです。

 さらに、お上の方で医療政策を作っている人たちは、本当に現場のことを知らないで様々な法案を作っているなという印象を持つそうです。
患者さんの情報源はメディアです。
 内藤先生の話では、患者さんはメディアの情報に大きく左右されて、本当のところが見えてなかったりします。
本当のことが見えていないゆえに、意思疎通がうまく図れず、医療者を攻撃したりとか不幸なことが起きてしまう側面もあるのではないかといいます。
常日頃大学病院の中にいて、患者支援の仕事に従事していると、患者側のことも、医療者側のことも見えてきます。
 そして、その両者の間には深い溝があることもわかってきます。
何よりも、医療者のサポートシステムがないことを痛感するそうです。
内藤先生は、患者支援は同時に、医療者支援でもあると信じて、頑張っているそうです。


 そんな志燃ゆる内藤先生が元々、目指されていたのは「孤島医療」や「僻地医療」に従事する医師でした。
そもそも、本格的に医師を目指したのは高校生のころでした。
 元来、社会に役立つような仕事をしたいという思いが強かったそうで、小さい頃は学校の先生になりたかったとのこと。
また、進学した高校が女子校の理系だったこともあり、周りにいる友達とも恋や結婚の話でなく、社会に出てどんな仕事をするかという話を自然にしていたそうです。

 この話には驚きました。

 これが女子校の理系の特長なのだそうで、意識の高さは注目に値します。
これからの日本の科学技術を支えるのは、女子校の理系人材かもしれません。
周囲は獣医さん志望が多く、「絶対に獣医さんになるんや」と固く決意していた人も多かったようです。
昼休みなどの空き時間には、友達同士で集まってよく将来ビジョンを話していたといいます。

 そんな女子校時代の延長線上でずっと生きてきているので、内藤先生の中で女性としてどう生きるか、家庭人としてどうなりたいかということが、いつも後回しになるそうです。
いつも一番大事なのは仕事という揺るぎない優先順位があるのだと聞いて、頭が下がりました。
最近は地域連携の仕事をしているので、この地域をどうしようかということをいつも考えているのだそうです。
どう育てれば、内藤先生のような素晴らしい職業婦人に育つのか、娘を持つ身として御両親にインタビューしたくなりました。


 内藤先生は平成10年、医学部を卒業されました。
 今から12年前の頃は、医学生は卒業すれば医局に入ることが当たり前だった時代でした。
今は研修医制度が変わって、市中病院などへも希望すれば行けるようになりましたが、当時は違いました。  しかし、ここで内藤先生は医局に入るべきかどうか、迷ったのだそうです。
最終的に従事したいのは僻地医療・・・考えた末、まずはみんなが乗るレールに乗るべきだと思いました。
大多数の医師達が進んでいく道を知っておくことから始めないと、スタンダードが見えなくなると思ったからです。
 12年前、大学病院はまだまだ、いわゆる「白い巨塔」の世界が残っていました。
当然、外部の大学から来た人に対しては扱いが明らかに違いました。
 内藤先生の出身大学は愛知医科大学で、医局は生まれ育った兵庫にある大学の医局に入るつもりでした。 内藤先生の医局選びの基準は、外に対してより開いていた医局であるかどうかだったそうです。
志望する内科の中で、外部大学出身の学生を受け入れることに抵抗感の少ない教授の元で学ぶのがベストだと考えていました。
 行動派で慎重な内藤先生は、神戸大学の学生にコンタクトをとって、アウトサイダーを受け入れてくれそうな医局はどこかと尋ねてみたら、「第三内科」といわれました。
そこは、内分泌内科・神経内科・血液内科の医局でした。
そこで第三内科の医局に入ってみたら、それが大当たりで、本当に良い医局だったそうです。
 「今でも神戸大学にいられるのは、その医局のことが好きになったから。神戸大学の卒業生よりも神戸大学が好きになりました。」
胸がときめくような言葉です。

 内藤先生が医局に入局してから一年ほどして異動があり、小野市民病院を経て和田山病院(現:朝来和田山医療センター)へ行くことになりました。
医局員は、兵庫県の中で過疎地域の多い北へ向かうのを嫌がっている人が多かったそうですが、内藤先生は逆に田舎に行きたかったので、嬉しかったのだそうです。
「とにかく田舎に行かせてください」と内藤先生が強く希望したのに対して、「どうぞどうぞ」と派遣されたのが和田山病院でした。
内藤先生が期待していた通り、大変忙しい日々を過ごしました。
 週三回の外来と同時並行で病棟の患者を30人診ていて、平日日中の救急患者はすべて、内藤先生のところに回ってきました。
合間に、胃カメラ・エコーの検査、往診(在宅、施設)、出張健診など、次から次に多種多様な仕事に向き合う日々。
 また、週に数回は必ず当直があり、病院敷地内の官舎に住んでいたため、まさに病院とは行ったり来たりの生活でした。
大学を卒業して四年目の内藤先生は、まさに体当たりで急性期から慢性期、ありとあらゆる症例にあたり、実践に伴って勉強を深めていきました。

 当時、和田山病院で初めて胃癌の腹腔鏡手術をするということになり、外科の先生から「内藤先生、手術室に一緒に入ってくれ」とお願いされました。
「腹腔鏡持っていてくれたらいいからって懇願されて。もう、なんでもありですよ。でも、今思い返しても、理想の実践の場でもありました。
嬉しいこともたくさんありましたよ。看護師さんから差し入れをもらったり。本当に、食事をする時間もなかったので、みなさんに支えていただきました。
掃除のおばさんからは畑で採れた青梗菜をもらったり、外来の時に患者さんが魚を持ってきてくれたり・・・。とても、うれしかったです。」

 そう語る内藤先生からは、本当に和田山病院での臨床経験が、ご自身にとってかけがえのない財産になっていることが伝わってきました。


 忙しくも充実した日々を送っていたある日、神戸大学の医局から電話がかかってきました。
それは「引き上げ命令」でした。
「これからもずっと、田舎の病院勤務で私は構いません」と主張してはみましたが、人事は覆りませんでした。 和田山病院で得た最大のものは、スタッフや患者さんからの「感謝」という贈り物でした。過酷な勤務の中で、内藤先生の心を支えたのも、その贈り物でした。 医師たちの間でも、外科や整形の先生とも、地域の開業医の先生たちとも、助け合い、支えあうことができました。
病院同士でも支援し合っていました。 内藤先生は、そんな臨床経験の中に、医師の原点を見出していたのです。

 平成14年4月、大学病院に戻ることになりました。
大学病院にせっかく戻るのだからと気持ちを切り替え、糖尿病・内分泌内科の研究室に入り、学位をとり、という普通の人が辿る道を頑張ろうと思いました。
 大学に戻った内藤先生は、カルシウム・骨代謝の研究に打ち込むことになりました。
カルシウム・骨代謝の研究を続けながら、臨床医として糖尿病・内分泌内科の病棟で研修医の指導医もしました。
そして、平成18年に患者支援センターの兼任になりました。

 そうして何足もわらじを履いた状態の時期が二年間くらい続きます。
自分の中ではどちらにより力を入れるべきなのか、頭の中が混乱した時期でもありました。
研究のことや大学病院での臨床のことなど、兼務をしていくことで全体が見えるのではないかと思っていたそうです。
 しかし、兼任をしていると、全体のことが見えるようで見えないもどかしさを覚え始めます。

 また、どこかの部署に所属していることで、会議の時などに発言のしにくさがありました。
「院内36の診療科のことを対等に考えられるようになるには、私はここを出た方がいい」

 内藤先生は決意をしました。
「患者支援センターの専任で行きます」と申し出たのです。
医師自身が地域連携室(患者支援センター)の専任になるというのは、珍しいケースのようです。
 神戸大学の患者支援センターのセンター長や副センター長は医師でしたが、みな兼任です。
専任はいませんでした。
先輩や同僚からも、「なぜ、そんなに専任にこだわるのか」とも言われました。

 大学病院が今まで疎かにしていた地域の医療機関とのネットワークを作りたいと思いました。
患者さんのことを第一に考えると、地域医療機関とのスムーズな連携は必須です。
大学の診療科の医師と地域の診療所とのやりとりが潤滑になり、相互に紹介したりされたりを素早くできるようになる信頼関係の構築、その基盤作りを頑張って進めていきたいと内藤先生は思いました。

 たとえば、地域の医師の集まりがあると聞けば内藤先生が顔を出して、それぞれの医師がどういう専門を持った医師であるかをリサーチして、情報を大学に持ち帰ります。
そして、それらの情報は、それぞれの診療科で臨床をする医師に資源として提供します。

 「私は、患者支援センターのスタッフや院内36の診療科が、患者さん目線で、動きやすくなるように、大学病院としての機能をどうしていくか、その体制をどうしていきたいかを訴えかけるのが私の仕事です。
やらなくちゃいけないことが多くて、大変ですけどね。
でも、最近、意識改革が起こり始めているんです。
まずは院長、副院長が地域に目を向け、地域連携の重要さに関心を深め始めてくれています。」

 大学病院と地域医療との連携に取り組み始めてから今年で5年目。
内藤先生の実感として、少しずつ、思いが届いているという実感があるそうです。
大学病院の外来をどうしていくかという委員会が立ちあがったり、ある診療科から地域連携を考えたいと院内から声があがるようになってきました。

 患者さんの目線に立って医療をより良くしていくことは、結果的に医師にとって働きやすい職場にしていくことでもあります。
内藤先生は、こう語ります。
 「医師が元気になれば、もっと働きます。そして、もっと日本の医療は良くなります。そうすると、患者さんには還元されます。
多くの医師は、過労死するんじゃないかというくらい働いています。
でも、それをサポートするシステムが、残念ながら無いのです。経営とかベッドの回転率も全部医師が考えている状態です。
だから、環境をサポートすることで、診療科の医師達には診療行為に専念してもらいたいという思いで、日々働いています。」

 内藤先生は、昨年一年間で、神戸市内の診療所88か所を訪問しました。
今年は病院を中心に訪問。神戸に病院が107か所もあるので、100近くは訪問する予定をしているそうです。

 「私の中では「営業」です。営業を医者がやっているという感覚といってもいいかな。
アポなしの営業ですね。最初のころは、本当にびっくりされました(笑)
一番忘れられないのが、診療所の先生が慌てて出てきて、『大学病院の先生が当院にお越しになるなんて・・・何か粗相がありましたでしょうか』って。
『違う、違うんですよ』って、慌てて否定しました。」
大学病院は今まで敷居が高かった部分があったのではないかと、内藤先生は感じています。
大学病院に紹介された患者さんについて、診療所の先生にお返事を返したりもしませんでした。

 「訪問の理由について『大学病院の中だけで医療が完結しているとおもっている先生もいるので、そういうところでご迷惑をおかけしているのではないかと思いまして』と説明すると、
診療所の先生たちは「実はね。。。」と大学病院への積年の思いを吐露されますね。
結局、何か問題があっても、診療所の先生たちには大学病院に面と向かって言う場がなかったことに気が付きました。」

 内藤先生は、貴重な意見だとして匿名で診療所の医師達の思いを資料にまとめていきました。
すると、診療所の医師達が大学病院に何を求めているかが見えてきたのだそうです。
 問題点は、主に大学病院のシステムにありました。
まず、36の診療科の中には、診療所から予約の要望があっても、地域連携室で勝手に予約を入れてもいい科と入れてはいけない科があるのです。
 だから、大学病院は予約に時間がかかります。
でも、診療所では当日来院している患者を待合室で待たしてしまっていたりします。
患者目線のできるだけスムーズな連携を図るのであれば、予約システムの改善は第一に取り組むべきテーマだと言えるでしょう。

 内藤先生は他の地域の大学病院の地域連携室の集まりには積極的に参加しています。
感じるのは、国立の大学病院の場合は組織が大きすぎることが弊害となって、地域連携が遅れているということ。
 「研究も教育も含めていろんなことが大学病院から始まっているので、大学病院が変わると大きいと思うのです。」
と断言する内藤先生に、将来の目標を聞きました。

 「病院の地域連携室で学んだ「医療界のネットワーク」を軸に、一人一人の出会いを大切にして“異業種ネットワーク”を作りたいと思っています。
そして、最終的には、これからの少子高齢化社会に向けて医療の視点からみた“社会支援システム=住みやすい町”を作り上げることができればいいなと思っています。」

 坂の上の雲を見上げているような内藤先生の澄んだ瞳に、同性ながら惚れ惚れとしました。
医師としての内藤先生が治していくのは、現代日本の医療システムです。
内藤先生が描いている日本の未来の形を、私達患者も参加して作り上げていきたいと感じました。


■呼吸器外科医・戸田省吾先生を訪ねて in 滋賀県大津市 2010.01.26


 新快速で大阪から約40分、JR大津駅を降り立つと、大阪とは違ってひんやりとした爽やかな空気が頬をなでます。琵琶湖湖畔の風が気持ちよく吹いている大津市にある中核的な病院「大津市民病院」を訪ねました。昭和12年に開設され、昭和39年に現在地に移転し、地域医療の充実のために大きな貢献を果たしてきた病院です。

 取材したのが平日の午前中だったのですが、たくさんの患者や医療スタッフが行き交っていて、病院という建物の中に一つのコミュニティーがあるような賑わいを見せていました。綺麗に整った清潔感あふれるロビーで待っていると、今回取材の申し入れに応じてくださった戸田省吾先生が現れました。戸田先生は、大津市民病院呼吸器外科の部長です。

 当病院の呼吸器外科は、呼吸器内科と協力して呼吸器疾患全般にわたる診察にあたったり、心臓疾患外科と連携して肺疾患に対する手術を行っているそうです。他科連携だけでなく、地域医療の充実のために様々な連携を取られている科でもあります。 特に、胸腔鏡での肺がん手術や胸部交感神経遮断術を数多く手掛けてきた実績があり、部長である戸田先生自身も、他の病院での手術数も合わせると、胸部手術を一万例、肺がんだけで千例の手術をこなしてこられた、この道30年というベテランの呼吸器外科医です。

 肺がんの手術となると、長期入院して、全身麻酔の上で開胸して・・・というイメージが私の中であったのですが、こちらでは、早期肺がんの場合、たった4センチの皮膚切開をするだけで手術を行い、術後入院期間も平均5日間ということで、予後も大変良いそうです。

 戸田先生に、取材場所として案内されたのが、地域連携室という部署の中の小部屋でした。最近の公立病院の多くには地域連携室があり、スタッフが常備して、問い合わせの電話に出たり、患者からの相談を受けていたりします。病診連携がじわじわと浸透しつつある現れかもしれません。




 戸田先生に、取材前に念のために録音をしたいのだけれど、録音をしても構わないですかと許可を求めました。
すると、またたく間に話は本題に入っていきました。

 「もちろん構いませんよ。患者さんでも、医師との会話を録音される方が増えています。
むしろ、個人的には録音していただきたいくらいですので、希望する患者さんには録音していただいています。
お互い録り合うというのはぎくしゃくしますので、私から申し出ることはありませんが。」

 その言葉を聞くだけで、外科医の抱える訴訟リスクの重さを感じました。 目の前の人の症状を治していくのは、あらゆる科の医師にとって共通の使命であり、目的でもあるわけですが、外科医というのは、特に生死にかかわる重大な手術を行う職務を担うので、医師の中でもひときわ背負うリスクが重く、それゆえ最近の若い医師には敬遠されてしまう傾向にあるのだといいます。小児科医や産科医の減少がマスコミを通じて近年伝えられてきて、小児科医は増えてきていますが、外科医の減少率は産科医よりも大きく、外科医の高齢化、外科医不足は大変深刻な社会問題になっています。

 「やはり何よりも大切なことは、患者さんと医師との人間同士のコミュニケーションです。外科医であっても、これは基本です」
と、戸田先生は語られます。
 患者との信頼関係を深めていく上で、戸田先生がいつも心掛けていらっしゃることは、患者に出来るだけ優しく接するということなのだそうです。

「たとえば、癌の告知をするにあたっても、
患者さんの性格面や特性を瞬時に見分けて、
普通に告知をすると自殺をするかもしれないような繊細なタイプの患者には、
最大限に配慮して柔らかい表現でショックを緩和させるように配慮したり、
なんでも詳しく説明した方がいい人には手術の細かい方法まで納得するまで話したり、
患者さんに合わせて話し方を変えますよ。
 中には、メモを細かく取られる方や、過度に几帳面な方もいますね。
 そういうタイプの患者さんには、きっちり言いすぎると、そのことで頭がいっぱいいっぱいになってかえって混乱するので、
言葉を選んで必要不可欠なことを端的に言うように工夫します。」

 まさに、想像以上に人間力が必要とされるご職業だと驚嘆しました。 戸田先生曰く、「外科医の仕事に必要とされるのは手術の能力半分、対人能力半分」だそうです。 外科医というのは「手術」というイメージが強くて、良し悪しは手術の腕にかかっているのではないかという印象がありましたので、対人能力が大きく問われるお仕事であるということに驚きました。

 病気を治すということは、医師と患者が共同作業で、一緒に治すものなのだと、戸田先生は強調します。大切なのは、医師と患者の間に確固たる信頼関係を築き上げていくこと。生きようと言うモチベーションを保ち続けてもらうこと、つまり「希望」を育んでいくことだといいます。

「患部を切って繋ぐのは外科医の仕事だけれど、頑張ってご飯を食べるとか、運動をするとかは患者さんの仕事。どちらが欠けても治りません。」

 家族関係も治療同盟の重要なサポートになるので、手術を説明したりする際に、患者の家族の中のキーパーソンを見つけておくのだそうです。
配偶者だったり、患者の子供の中で一番発言力のありそうな人を見つけて、その人には重点的にきちんと話をするとか、コミュニケーションを密に取っておくそうです。
説明の際にキーパーソンが来られない場合には、電話をかけるなどして対処します。医師とキーパーソンとの信頼関係も非常に大切なのだそうです。
本当に繊細なケアの必要なお仕事なのだと痛感しました。

 戸田先生が常々、若い医師に言うことは、「臨床は接客業だ。」ということ。仕事の半分は喋ることで、手術がすべてではないことを強調されるそうです。

 「患者さんと医師という立場は違うけれど、診察室の中では人間同士の1対1の付き合いになってきます。
 患者さんに嫌われたらおしまいだと感じます。
 実際のところ、人と接するのが嫌いだとか無口な人は、この仕事には向いてないと思う。」
と戸田先生は言います。

 実際にそういうタイプの人が外科医になってしまい、患者との関係がこじれてクレームに繋がったりするケースも多いのだといいます。医療者と患者のコミュニケーションが本当に重要であることを痛感する話です。
 自分がその立場になったと想定した時に、自分が嫌だなと感じるようなことは言わないでおこうとか、自分がしてもらって嬉しいことをしようとか、患者と向き合う時の姿勢をしての基本的な指導はその二つなのだといいます。


 戸田先生が医師を目指したきっかけは、高名な細菌学者・野口英世の伝記を読んだことでした。
単純に「お医者さんになって、なにか菌を発見して、ノーベル賞を取ろう」と志したのだそうです。驚くような発見をしてノーベル賞を取りたいと無邪気に思っていたそうなのですが、医学部の3年生になって解剖学などを学ぶにつれ、ノーベル賞は難しいことを悟ったといいます。

 そこで今度は病理学を学ぼうと思っていたそうですが、1日中顕微鏡を見ている先輩の医師達の姿を見ているうちに、「これは自分には向いてないな」と気づき、臨床医になろうと思いました。そして、4年生のときにたまたま山崎豊子さんの「白い巨塔」を読んで、小説の中に登場する外科医の颯爽とした姿に憧れ、外科医を志されたのだそうです。

 外科医になるには体力が必要なのではないかとよく聞かれるのだそうです。
「元々体力に自信のある方ではなく、特に8時間睡眠を堅持したい方なので睡眠不足には耐えられないと思っていましたが、なんとかなっていますよ」と朗らかにおっしゃいます。
「本屋さんの立ち読みを10分も出来ないくらい、立っているのがしんどい方なんですけどね。でも、手術の時には不思議と10時間以上立っていても、まったく平気なんですよ。どこかのスイッチがカチッと入る感覚なんですね。」
・・・凄いの一言。手術中はトイレに行きたいとも思わなくなるそうです。プロフェッショナルなお仕事ぶりに、ただただ脱帽です。

 内視鏡下の手術なんて、本当に繊細なオペになるので、手先は昔から器用だったんですかと質問をしました。

 すると、笑顔で「とんでもない」と否定。
「工作も苦手だし、絵を描くのも苦手。本当に美術の時間は嫌でしたね。
ところが、医学部というのは絵をたくさん書かされるところでね。病理学の授業では、顕微鏡を見ながら、スケッチをしなくてはならないんですよ。
僕の場合は、全部歪んでしまい、良性の細胞も癌細胞のように仕上がってしまうので、ほとほと困りました。」

 戸田先生は、ベテラン外科医になられた今でも、レントゲンなどの絵を書かなくてはならないので、そのたびに苦痛を感じておられるのだそうです。パーフェクトに見える戸田先生でも、苦手な分野はあるのだなと思いました。

 手術前は、頭の中でイメージトレーニングをするのだそうです。 「そろばんの得意な人の頭の中にそろばんが入っている感じで、頭の中にね、肺が立体として入っているんですよ」飄々と、ドキリとするような表現をする戸田先生。

 「オペの手順をいかにルーティンワークにしてしまうか、そこで医師の腕が決まるんですよ。
 外科医になりたいけれど、不器用だからなれないと思っている学生も多いですが、不器用でも大丈夫。
 経験と努力でカバーできるところがあるんです。
 器用な人が上手とは限りません。
 整頓好きな医師が手術が得意とも限らないんですよ。
 僕の友人で、手術がとても上手な医師がいますが、机の上はとてもちらかってますからね。」


 医師になられてから、30年の年月で変化したことをお聞きしました。
 「医療の技術が大きく進歩することで、かつては手術で治療することが不可能なので断念していた患者さんを手術することが可能になってきました。80歳、90歳の方の手術も頻繁に行われています。
 慣れてくると、患者さんと喋っているだけで、手術が出来るかどうかがわかりますよ。勘のようなものがまず働いて、その直感の裏付けをとるために、検査をします。
 胸腔鏡手術が画期的でしたね。開胸しなくてもよくなったので、体を切開する範囲が減りましたから、患者さんに与えるダメージを最小限に食い止めることができます。
 だから、治るのも早いですよ。」
とまずは良い面を話してくださいました。

 そして、気になる変化も挙げてくださいました。
 「それから・・・大きく変わったのは、世間の中の医師の位置づけです。学生の頃の医学部の教授なんて、患者さんにとっては神様だったですからね。
 語弊があるかもしれませんが、根っこに尊敬の念がありましたし、信頼関係も成り立っていましたから、当時の方が失敗に目をつぶってもらえていたかもしれません。
 今だったら、裁判になっていたかもしれないというケースがたくさんあったと思います。患者さん側に情報もありませんし、医師の指示通りになるしか選択肢はありませんでした。
 今はネットで調べれば、病気の情報がいくらでも出てきますからね。医師も覚悟して、患者さんには、きちんと説明しなくてはなりません。結果論で物を言わないように気をつけることです。
 できるかぎり丁寧に病気や治療によって起こりうる事態の可能性、危険性の説明をしておけるかどうかがポイントでしょうね」

 ただし、話し方にも気をつけなくてはならないのだそうです。
 真実をありのままに伝えることで、患者が恐怖心を持ってしまい、手術を受ける気をなくしてしまうと、元も子もありません。
 「優柔不断な性格の患者さんは、それだけ聞いても不安は解消されない可能性がありますね。聞けば聞くほど迷うものです。
 外科の治療は後戻りできませんからね。切ってから、切らんといてくれと言われても元に戻せないんですよ。
 だから、取捨選択が難しいのです。
 多くの医師が、自分の言うことが一番正しいという気持ちで言うので、患者さんもそう思ってしまいます。
 医療は不確実で、人間の体や病気の仕組みには、まだまだ医学や科学では分からないことだらけです。
 常に基準は、『自分がされたいこと、自分がベストだと思うことをする』です。」
と、迷いなく答えていただきました。
 自分がされたいことを突き詰めていけるのも、長く積み上げた経験があってこそなのだろうなと感じました。

医療崩壊についてお聞きすると、「外科医の大変さは、数が減っているという危険性です」と、きっぱりお答えになりました。
やはり大きな問題は、訴訟リスクの高さにより、学生が外科医になるのを敬遠している点だと言います。刑事事件になっているケースも多いし、マスコミの報じ方もどうしても原告寄りになってしまっているように感じられるそうです。

 国や厚生労働省のレベルで外科医になってみたいと学生に思ってもらえるような政策を取ってもらうのはもちろんのこと、訴訟の問題をなんとかしてほしいと訴えます。
 外科医というただでさえ過酷な職務に加え、裁判業務が加わると大変な業務量になってしまいます。精神的な負担感も多く、心身ともに参ってしまい、手術の現場を去ってしまう医師も後を絶ちません。
 医療現場が萎縮してしまって患者のための最善策が取れなくなっていたり、医師の数が減ってしまって外科医の空白地帯ができてしまったら、何より患者のための医療資源を提供することができません。
 裁判を回避する、双方にとってより建設的な形を模索していくことができればと切望されています。

最後に、良い医師と出会うにはどうすればいいか、アドバイスをいただきました。

 「正直な話ですが、大学教授だからって凄く手術がうまいとは限りません。
 世界的に評価されている論文を書いているからって、目の前の患者さんに最善の治療を施せるとは言えません。
 テレビに出演している有名な医師が、自分の病状に合った手術をしてくれるわけでもありません。
 ちゃんと患者に向き合ってくれて、心を通わせることができる医師を見つけてください。
 ・・・難しいかな。やはり口コミは大切ですよ。
 思い切って、知人や近所の人に尋ねて、情報収集をしてください。」

 やはり、地域コミュニティーの再生とともに、口コミパワーの復活も大事だなと感じました。
 他人の生活にはかかわらないように生きるのが時代の流れになってきた観がありますが、健康な時は一人でも生きられますが、病気になると人との繋がりが命綱になります。
 最近痛感するのですが、お母さんたちの情報収集能力は本当に素晴らしいものがあります。「あそこの診療所の○○先生は昔、▲▲病院で勤めていて、・・・」という生きたデータベースが入っています。このデータベースにアクセスする井戸端会議力、これこそが日本を救うかもしれません。

 戸田先生は、毎日、診察と手術に忙殺される日々を送っておられます。
 それでも、大好きなクラシック音楽を聴いたり、定期的に国内外で旅をしたり、テレビでサッカーや連続ドラマは必ず録画して、睡眠時間を削っても見ているそうです。

 「僕自身が元気じゃないと、患者さんを治せませんからね」

 元気になるためのコツをいくつも持っている戸田先生は、セルフケアのスペシャリストだと感服しました。戸田先生と話していると、朗らかで話題が豊富で、手術をしてもらったわけでもないのに、すっかり元気にしていただいたような感じがしました。

 五月に、若手の外科医を増やそうという目的のNPOが立ちあげられるそうです。
http://news.livedoor.com/article/detail/4213476/

 私たち一般国民も当事者として、問題意識を共有していかなくてはならないと感じます。




■とある小児科医のこぼれ話2009.08.03

 小児科崩壊が叫ばれて久しい。
 しかし、本当にメディアで報じられている通り、小児科は崩壊の危機にあるのでしょうか。  

 ある小児科医は、匿名を条件に私のインタビューに答えてくれました。   
 彼の証言によれば、小児科が崩壊の危機にあるのではなく、小児科はすでに前々から崩壊していたのだといいます。  
 しかし、日勤帯の医師数は足りていて、崩壊しているのは「夜間小児救急」であり、夜間小児救急を担う医師数の絶対数が足りないのだというのです。  

 まさに小児救急の現場で勤務する小児科医に、本音の話を聞きました。  
 最近は開業小児科医の数が増え、鼻水や咳など、ちょっとした症状の時にはかかりつけ医を受診し、治りが悪い、もしくは重症の患者が病院にかかるという、ある意味すみ分けができつつあるそうです。  
 
 小児科は季節によって忙しさにムラがあり、特に冬場、風邪やインフルエンザが流行する季節に患者の数が飛躍的に伸びるそうです。  
 ただ、一番繁忙期に合わせて人員を手当てすると、夏場の暇な時期には人が余ってしまいます。 今はどの病院も、病床利用率といって、どの程度病床が詰まっているかで病院の収益が決まり、自治体病院などは、病床利用率60パーセントなどの線引きがされていて、その基準を下回る病院には経営の見直しや査察が入ったりするそうです。 利用率が目標に達しない場合は、病院を診療所に変更したり、病診連携の形態を変えたり、経営形態が見直されてしまうのです。  

 病院といえど、厳しく経営体質が問われる時代なのです。 医療費抑制政策の影響で、採算ラインはさらに厳しいものになってきており、常時ベッドが足りない状態にないと、経営がなりたたないという厳しい局面に立たされている公的病院もあります。多くの公的病院が、病床利用率9割を目標にしているという話もあります。 常にベッドは満床状態、その裏にはこんな経営の事情が隠されていました。 いつも病院勤務の医者の頭の中には病床利用率や経営効率のことが離れないのだそうです。   

 そんな中、季節によって必要人員数が大きく異なる小児科のでは、人が余りすぎないように、ぎりぎりの人員配置が行われるのが常となっています。しかし、日勤帯の小児科医の数は足りているのだと言います。小児崩壊とよく言われていますが、医師たちが普通の外来や普通の入院診療に対応する日勤帯は壊れていません。  
 
 要するに小児救急の数が絶対的に足りないのです。  

 統計によれば、夜間救急の六割から八割、平均七割は小児ですので、必然的に夜間小児救急に対応できる医師の数が必要になります。  
 大きいエリアでカバーしようと思うと、そのエリア内の多くの小児科医でシフトを組んでカバーすることが可能になります。  
 しかし、小さい地域になると、その分カバーをする医師の数が減るので、シフトを組む際にどうしても一人あたりの拘束時間が増えてしまいます。それにカバーする医師の数が少ないと、どうしても365日24時間の対応は厳しくなります。  
 
 エリアによっては、カバーしきれていない時間帯は、その時間だけ病院ではなく診療所としての対応となり、入院が必要な重篤な症状を呈した患者に対応するには「診療所からの入院適応」と言う形でなんとか機能させているのが現状です。 広域をカバーするとなると、どうしても訪れる患者の数は増えてしまいますが、一人あたりの拘束時間が比較的に短くて済みます。よって、医者はその時間だけ頑張ればいいという考え方もできるので、そうやって前向きに思考して、現場の小児科医が自らを奮い立たせることで、かろうじて小児救急の現場は持っているのが実情だと医師は語ります。 しかし、患者の待ち時間は大変なことになります。一つだけの市など小さなエリアなら一晩50人だったのが、複数の市が合わさった大きいエリアになると200人。お正月になると、250人から300人。患者は六時間以上待たされる時もあります。大概は医者がたった一人で深夜の外来を担当するので、冬場、風邪が流行している季節には、まるで野戦病院のようになるそうです。 それでも、現場の医師の声とすれば、一か月の中で宿直日数が増えるよりは、一回あたりの労働がきつくなる方がいいといいます。  


 地元の開業医がシフトを組んで対応する休日診療所もありますが、まだまだ患者の意識として「できれば病院で診てもらいたい」という気持ちが残っているのは事実。  休日診療所よりも病院の方がいざという時の対応をしてくれそうだから、待たされたとしても病院で診てもらえるのなら仕方がない」と納得する人も多いのだとか。
 
 開業医の小児科医の先生たちも頑張ってフォローはしてくれているのだが、病院勤務医の負担はすでに限界のところまできていて、「小児崩壊の危機」ではなく、すでに「小児救急は崩壊」してしまっているのです。  
 
 経営効率が頭をもたげ、訴訟リスクに怯えながら、肉体的精神的にぎりぎりの状態で、過酷な勤務に従事している・・・そんな小児科の病院勤務医の自己犠牲とも言えるような働きぶりに胸が痛くなりました。  一晩200人も患者を診る状態が断続的勤務であるわけがありません。  


 小児救急を担う勤務医たちの労働状況の見直しは、喫緊の課題だと感じました。  
 また、軽い鼻水や咳など軽症の患者はできる限り日勤帯にかかりつけの診療所へ行くなど、患者も意識を変えなくてはならないと痛感しました。

 
 その医師が勤務している県では、県立の医科大学の附属病院が県の救急医療のすべてを担っていた時期がありました。 その頃は、重傷患者を含め一晩あたり小児救急100人の患者を、小児科の研修医が診なくてはならなかったそうです。

 4月に入局をしたら、6月から一人当直を任されます。当然、痙攣重積(けいれんじゅうせき)などの重篤な患者も研修医が診なくてはなりません。もちろん、手に負えない時には病床勤務している先輩勤務医に打診をすることもあります。まさに、救急の現場で試行錯誤しながら、薬のイロハから、点滴の取り方などを実地で覚えることになります。

  しかし、様々な事情から、大学病院が県全域をカバーするという体制が取れなくなってしまい、地元病院も協力する形で、県を南北にブロック分けした救急医療体制が敷かれるようになりました。 二つにブロック分けされた一つのエリアでは、一次救急、二次救急、三次救急と、三段階の救急医療体制が取られています。 たとえば、県南部の地域では、午後5時から翌日の午前8時半までの夜間救急を八つくらいの病院で回し、365日24時間患者を受け入れる体制を整えています。 地元の開業医の協力により休日診療所もできて、重症の救急患者に病院が対応を集中させられるようにもなりました。

  休日診療所は、トリアージ、つまり病態の重症度の選別するという役割を担っている側面もあります。 たとえば、呼吸管理が必要な患者や痙攣重積など重い症状の患者は三次救急を担う大きな病院が受け持ちます。 しかし内実は、厳しい現実があるのだそうです。 外形的なシステムが配備されていたとしても、その繋がりは人的な結びつきによってなされています。 重症度が高く、二次救急から三次救急に患者を送ろうとしても、送り先の三次救急の先生の機嫌が悪かったら「万床です」と取ってくれない場合があるのだそうです。 そうなると、二次救急で頑張るしかないということになります。 非常に不条理な部分ですが、現実はどの世界も似たようなもので、個々人の人間性によるところが多いということなのでしょう。

 また、様々な地域での取り組みとして、深夜救急の軽症受診、つまりコンビニ受診を控えようという動きについて、率直な意見を聞いてみました。 結局は専門家ではないご家族の方が、どれだけ重症度を診断できるのか、重症度の判別つまりトリアージに問題がないのかということに、まずは不安を感じると話します。

 子供の症状は、始めは軽症であったとしても急に重症化するケースがあります。 どれだけ患者を見ていても、専門家である医師でさえ予測の難しいケースもあります。 いつも側で養護している母親なり保護者が、これはいつもと違うと直感的に思うのなら、遠慮なく連れてきてもらいたいといいます。  

 ご家族が異常を感じて不安になって受診をしたケースは、結果として軽症であったとしても、全て中等症以上の可能性のある患者として診察するのだそうです。 それこそが医師の責任であり、職務であると断言します。 ご家族がトリアージのための勉強して、出来る限り軽症での受診を控えようと努力をされるのは大事なことだし、医療者としては非常に有難いとは思うけれど、だからといって医師が頑張らなくていいということにはなりません。

 責任の所在はコンビニ受診ではなくもっと別のところにあって、地域の夜間小児救急の崩壊など医療が足りない部分にきちんと行き届くようなシステムを配備することこそが必要なことであるといいます。 お母さんたちの頑張りに甘え、行政や医療者が責任をお母さん方に振ってしまってはだめだと主張します。
 もちろんコンビニ受診の中でどうかなと思うケースもあります。 たとえば、三日前くらいから熱があって、日勤帯に来てくれたらいいのに、いろんな都合から夜間につれて来るケースは甚だ疑問なんだそうです。

  救急が診なくてはいけないのは、いま手当てをしなくてはならない患者であり、今急変をするかもしれない患者なので、以前から熱があった患者さんが夜間救急にくるのはちょっと勘弁願いたいのだそうです。 病院へ行く足がないとか、親の仕事の都合とか、個別の事情があるのはわかるけれども、そこはきちんと日勤帯に受診をしてほしいと思うと話していました。


 小児科を目指す医師の数は果たして足りないのか、今はどの政党も医師の絶対数が足りないことを主張し、医学部の定員を増やして医師の数を増やすという公約を掲げています。 その疑問をぶつけてみると、こんな答えが返ってきました。

  「確かに小児救急に焦点をあてると、夜勤を担当する小児科医の絶対数が足りないために人が回らない状況が各地で起こっているし、地域医療が成り立っていない場所が全国にあることは深刻な問題であると考えます。
 ただ、単純に医師を増やせば良いという問題ではないと考えます。一番懸念するのは、医師の数を増やして、実際に入学してきた学生が研修医になる6年後に、本当に医師が必要なところにマンパワーが行き渡らず、人気のある科は人余り現象が起こってくるのではないでしょうか。小児科の入局希望も、確かに一時期は厳しい状況にありましたが、今では「小児崩壊」が問題提起された影響もあってか、入局希望者が増えています。
 しかし、日勤帯を担う医師の数はすでに足りているんです。問題は夜間をどうやって回すかでしょうね。」

 結局、問題は「科」ではなく、「担当する仕事の内容」なんだなと感じました。
 たとえば、外科の領域でいえば、心臓血管外科など、神の手と呼ばれるような最先端の手術が出来るようになりたいと思う医師は増えているのですが、盲腸の手術など、一般的な手術を担う医師の数が減ってきていて、外科医が高齢化しているのだそうです。

 数年後には問題が顕在化するのではないかと、その医師は警鐘を鳴らします。

 専門医志向、高度医療志向・・・マスコミがもてはやすことにも、責任の一端があるのかもしれません。 必要でない医療なんてありません。どれも重要な分野であり、日本の医療技術の高さは世界に誇れるものであることに異存はありませんが、問題はバランスなんだと思います。
 本当に必要となる日常の医療が軽視されている傾向にはないか、貴重な医療資源をどう育てていきたいのか、足りない分野はどこなのか、患者側も当事者の問題として考えていかなくてはならないと痛感しました。

 また、一般的な報道では、大学病院の医局制度が崩壊したことが、地域医療の格差や崩壊を生んだと言われています。 しかし、この現象はすでに新しい局面に入りつつあるようです。 確かに、学生が卒業して医師免許を取得してすぐに医局に入局するというルートは衰退しているのですが、いろんな病院で研修医として働き、医師として勤務していくうちに、やはり医師としてのこれからのキャリアアップを考えた時に、満を持して医局に入局するという人が増えているのだそうです。
  つまり、卒業後すぐに入局するのではなく、数年間は自分が望む医療現場での経験を踏んでから、今後の現実を踏まえて、医局を選択し、入局するという傾向にあるそうです。 卒業した大学の大学病院の医局にこだわらず、今後の自分自身のキャリアや人生設計によっては、出身地にある大学病院の医局に入局したり、興味のある地域の医局に入局したり、自分の意志で働く場所を選択するという意味合いで入局する人が増えているそうです。

 興味深いトレンドだなと思いました。

  小児科勤務医は激務です。

 お休みはあるんですかと尋ねると、「あります。月に三日くらいは。」と答えます。

 月に三日の貴重なお休みもオンコール(電話で呼び出しを受ける可能性のある状態)だったりします。  週に一度か二度は当直勤務があり、夜勤の前後にも診察をすることも多いので、連続勤務はすさまじいものになっています。
 睡眠を取らずに24時間連続で働いた状態の人の注意力は、アルコール血中濃度0.1パーセント(体重70キロの人が瓶ビール二本を飲んだのと同じくらいの酩酊状態)の注意力と等しいのだそうです。

 医師たちの過酷な勤務状態は、患者にとってもいいことなど一つもないのです。 常に病床利用率が頭の中に散らついている状態の医師に医療を受けることだって、患者にとっていいこととは思えません。 ベストが難しいのであれば、ベターのラインがどこにあるのか、目指すべき医療体制について、国民的な議論が必要な時期なのかもしれません。




安静は禁!動いて治す、画期的な治療法2009.07.22

くいだおれ人形の主治医に会う>

 大阪府羽曳野市にある、整形外科専門病院「島田病院」を訪ねました。
 きっかけは、私が三月に出版した「アレルギーマーチと向き合って」 (朝日新聞出版)という本の担当編集者だったY嬢が、島田病院の島田永和院長を紹介して下さったこと。 Y嬢いわく、「島田病院の島田先生は非常にユニークな理念をお持ちで、しかもあの『くいだおれ人形のくいだおれ太郎』の主治医でもあるんですよ」とのこと。
 
 大阪で一番有名な人形の専属整形外科医・・・俄然、興味が湧いてきました。  

 しかし、事前に島田先生が執筆した「痛い腰・ヒザ・肩は動いて治せ」 (朝日新聞出版)という本を読んで、人形の修理も手掛ける魔法使いではなく、イチローや数々のオリンピック出場選手の治療、 リハビリを手掛けて来られた、とても有名な整形外科医だと知りました。しかも、島田先生の主張される「安静は禁物。治療の基本は動くこと」 という自説が奮っていて、お会いする前から「どんな方なんだろう」とワクワクしておりました。
巨大なメディカルスクエアに潜入

 私の自宅から、電車とバスを乗り継いで30分ほどの所に「島田病院」はありました。  
 広い敷地の中に、整形外科・内科・神経内科・麻酔科・リハビリテーション科・リウマチ科を標榜する 「島田病院」を中核に、「介護老人保健施設」「訪問看護ステーション」「疾病予防施設」「在宅介護支援センター」「高齢者生活福祉センター」など、 いくつもの施設が併設され、巨大なメディカルスクエアの様相を呈していました。


 (  


 なんと島田病院の地下には「はびきのヴィゴラス」というメディカルフィットネスクラブまで整備されていて、 一流のアスリートから腰を痛めた近所のお年寄りまでが一堂に集う場所になっていました。





 激しいスポーツの経験もありませんし、骨が丈夫だったものですから、今まで整形外科のお世話になったことがありませんでした。 ですから、このような形態の病院があることがとても新鮮で、ますます島田院長にお話を聞くことへの期待が高まってきました。  
島田永和院長、登場!

 かなりお忙しいらしく、スケジュール管理はすべて秘書の方がされていました。  

 受付にて名前を言うと、秘書の方が来てくださって、小部屋へ案内して下さいました。 病院のパンフレットをもらって、しばらく読みながら待っていると、いよいよ島田先生が登場。




  豪快な方で、島田院長が部屋に姿を現しただけで、その存在感で空気が一気に華やぎました。
  「安静こそ最良の薬だと思い込んでいたので、先生のご意見は本当にめからうろこでした」 と、 私が本を読んだ感想を述べると、島田先生は 「安静にしていたら、問題のない部分の筋肉まで衰えてしまう。 悪いところを治すのも確かに大事だけど、同時に全体を元気にしていかないと。

 私が提唱している医療は、治療やリハビリの方法を本人が選択して、ここまで治りたいという具体的目標に向かって、 本人と医療者が共にタッグを組んで前向きに闘っていく医療です。だから、患者さんは治るための努力をしなくてはいけません。 でも、治りたいという前向きな気持ちがあれば、みるみる治ります。何より大切なことは、夢や目標を持って諦めないことなんです。」 つまり、手術などの治療の後、医師から「安静にしてください」と言われ、長く入院をしたり自宅に引きこもっていると、確かに患部は回復していくけれど、 同時に問題のないほかの部分は衰えていき、結果的には元の状態に戻すのに、かえって時間がかかってしまうのだというのです。 患部に出来るだけ負担をかけないような動かし方をしっかり整形外科医や理学療法士に学んで、できるかぎり動かしておくと、 筋力の衰えを最小限に抑えることができるというのです。

 そこで疑問に思うのが、先生のご説はトップアスリート、つまり肉体的にも精神的にも類まれな資質に恵まれたスーパースターのみに通用するのではないかということ。 素朴な疑問をぶつけてみると、 「そんなことはありません。一般の方でも同じです。目標を持って、そこに向かって本人がどれだけ頑張るかって話なんです。 僕たちはプロとしてきちんとした情報を提示して、サポートする。治す力はご本人の生きる力です。 たとえば、娘さんの結婚式が一週間後にあるとして、それに出たいという希望のある患者さんに対して、『安静にしていた方がいい、出るな』なんて言えません。 でも、無理をして行くとなると炎症がひどくなるというリスクは患者にはある。 『ではそのリスクを減らすために、どのように動いたらいいのかを一緒に考えようね』と患者さんには言います。」と明快に答えて下さいました。  
 患者さんそれぞれのライフスタイルを大切にする医療だと感じました。  

 「生命と生活と人生をトータルでサポートしたいって思ってるんです。」と瞳をキラキラさせながら熱く語って下さる島田先生。 患者が夢や目標を実現するのを支えたいという情熱が人一倍強いので、それゆえに一人の医師として限られた時間をいかに有効に使うかをユーモラスに話して下さいました。

  「目標を持って前へ進む人間しか支える気はないんです。頑張ろうと思ってここにやってくる患者しか受け入れません。 やり方が違うと思うのなら、別の整形外科を探してほしい。自分を必要とするほかの患者のために時間を使いたいですからね。 あと、『先生の顔見るだけで元気になるわ』と漫然と来る患者に対しては『ほんなら写真をあげるから、家に飾っといて』といいますよ(笑) だって、患者にとっても自分にとっても限られた時間ですから、最大限有効に使いたいじゃないですか。みんなに優しく、みんなににこにこしてはいられません。 患者は「赤ひげ」のように、ドクターたちに理想を求めすぎているように思います。やるべきことは精一杯やりますが、限界はあるんです。やれることとやれないことがある。 患者の個体差もある。それをわかってほしいですね。」
医師が患者を呪いにかける?

 さらに島田先生は、衝撃的な言葉を用いて、今の医療の問題点を指摘します。  
 
 「今の医療によって、たくさんの犠牲者が出ていると思っているんですよ。僕はね、それを『呪い』と呼んでます。」  
 
 突然、発せられた「呪い」というオカルティックなフレーズに、私は大きく反応してしまい、島田先生の主張に深く聞き入りました。 「たとえばレントゲンを見ながら、腰のあたりがどうのとか、もう何年したら歩けなくなる可能性がありますよとか、そういう言葉を患者に投げかける医師が多い。 これは呪いの言葉ですよ。これからどういう経過を辿るかわからないものに対しても、レントゲン所見で診断を下す。 患者はね、その言葉を聞いて戦慄して呪縛をかけられるわけです。決して無理はすまいと、生活のすべてにおいて萎縮的になる。 全てに後ろ向きになるし、生活も面白くなくなるし、鬱にもなるだろうし、全てが悪循環になります。これが、呪い以外のなんでしょうか。同業者の悪口は言いたくはないですが、レントゲンやMRIの所見が悪くても、なんともない人って世の中にたくさんいる。自覚症状がないのに、それをことさらに説明することにどんな意味があるというのでしょうか。まだまだ医学はわかっていないことだらけなんです。検査の技術は進んでいますけど、検査の意味はわかっていないことが多いんですよ。」・・・一網打尽でした。  

 知ってしまったからこそ、過剰に病気を意識してしまうことは確かにあります。おそらく心理的な問題なのでしょう。 病は知らない間にいつのまにか治癒されていたというのが一番いいとも言いますし、知って意味のあること、意味のないことがあるのでしょう。 島田院長の話で、いろんなことに合点がいきました。
日本とアメリカの違いとは・・・

 さらに、アメリカの医療を例に挙げて、日本との違いを説明してくださいました。 アメリカの整形外科の現場では、受傷してかなり初期の段階で、どのくらいまでの回復が限界であるかという客観的な事実を患者本人や家族に告げるそうです。 たとえば、歩くことは望めない患者に対して、「もう歩くことは難しい」とはっきりと告げるそうです。 しかしながら同時に、「今、あなたがもっているプランを絶対にあきらめるな」と主張するんだそうです。たとえば大学に行きたいという希望を強く本人が持っているのならば、 医師が大学のパンフレットを取り寄せて、どの大学が障害者対応をどれだけ緻密にやっているかなどを、患者と一緒に調べてくれるそうです。 まさに、人生のペースメーカーのようです。
 日本の場合は、まず医師は患者に対して「一緒に頑張りましょう」と言うそうです。病状や今後の見込みについては曖昧に表現を避けることも多く、 入院中や退院後に患者は徐々に自分の状態に気付くそうです。患者が自分自身の状態に気付くと、「昔の夢はあきらめなさい。もう体が違うんだから」 と医師は諭すのだそうです。あるがままの状況を受け入れるのですと説得する医師もいます。日本の精神風土かもしれません。

 アメリカの整形外科医の厳しいところは、本人が責任を持って頑張らないと「それなら退院して」と突き放してしまうところです。 目標もなく努力もしない人を治療することは出来ないというわけです。 「それに比べて、日本の場合は『なんで自分がこんな酷い目に・・・』と落ち込んでいる受傷者に対して『よしよし』とする優しさはあるんですよね。」 と皮肉交じりに語る島田先生。「自分も目標を持って前に進む人間しか支える気はないんです。どちらかといえば、アメリカ的かもしれません。」 たとえば試合中に腱を切った選手がいたとして、手術をして治療を続けて通院でリハビリもして10ヶ月後に治ったとします。 でも、これでは完全に治ったとは言えないのだそうです。腱を切った同じ場所の同じシチュエーションで、できれば腱を切った瞬間をもう一度再現出来て、 それで大丈夫であることを本人が確認して初めて治療が完了するといいます。 つまり、精神的にも病気を乗り越えるということが大切で、それができて初めて病気を克服したといえるのだそうです。 トップアスリートも私たち一般人も、最後はメンタリティが肝要ということなのでしょう。

患者の人生と向き合うということ

 そんな豪快でアグレッシブな印象の島田先生なのですが、前向きな治療に取り組まれている背景には、島田医師が辿ってきた経験がありました。   「僕はね、がんの最前線の医療から逃亡した医師なんですよ」  ・・・島田先生は元々、大学を卒業し医師国家試験に通った後、外科を担当したくて外科医となり、 先輩医師の下で癌の開腹手術を行っていました。  
 ある時、若い男性患者を開腹したら、進行性の癌が手術不可能なほど広がっていて、そのままお腹を閉じたことがあったそうです。 でも、手術室の外の待合には患者の幼い子供が待っていて、このまま早々に手術を終えてしまうと、家族に手遅れであったことを気付かれてしまう可能性があったそうです。 そこで、先輩医師の指示で、回復室に患者を移し二時間が過ぎてから、ようやく患者を手術室から出すということもしたそうです。  

 ほかにも、がんの告知をしていない患者に対して、抗がん剤の点滴をするときに「これは栄養剤ですからね」と嘘をつかなくてはならない場面が幾度かあったそうです。 疑心暗鬼になってくる患者に対して必死に偽り続けることに「一体何の意味があるのか」と深く悩まれたそうです。
 「次第に病棟に足が向かなくなっちゃってね。治っていく医療である「整形外科」の方へ逃げ出してしまったんだよね。」  

 外科医時代の話をされている時、島田先生の目に涙が光りました。  

 本当に心の優しい人なんだなと思いました。 島田先生が今になって当時のことを振り返ると、 医者にとっても患者にとっても嘘をつくことは不要な苦しみであったと思うと感じられているそうです。 医療者が患者と共にきちんと生きることに向き合うこと、それが整形外科医としての仕事の原点になっていらっしゃるのかもしれません。 さらに、終末期医療をライフワークとして考えるようにもなったそうです。  
 高齢の患者さんの治療をするときに「どんな風に生きたいのか、どんな風に死にたいのか」ということを聞いて、 その希望をヒントにして、それに沿った治療を組みたてようとと心掛けているそうです。 そのために状態を正直に患者に伝え、聞きにくいことも逃げずに聞いていくようにしているのだそうです。  

 島田先生は確固たる信念に生きる「サムライ」のようなお医者さんだと思いました。    




<噂の医療者に会いたい in奈良・橿原市>2009.06.16

スーパードクターに会いに行く

 6月半ばの昼さがり、いつもホームページの管理やメールマガジンの配信を担当してくれている事務局のラスカル嬢(ラスカル嬢は見た目がアニメのラスカルに似ているのです)と二人で奈良県立医科大学を訪れました。

 私たちの目的は、奈良医科大学の救急医学教室・准教授の西尾健治先生にお会いすること。

 ラスカル嬢の長男坊は、喘息様気管支炎やクループ、消化器官の病気などで、よく近くの柏原病院に入院しているのですが、その際に大変お世話になった小児科医の一人が西尾先生だったそうです。

 子供の顔を一目見れば気管支の状態がわかり、西尾先生の顔を一目見たら親御さんの心が安心するというほどの名医だということで、

「それは是非ともオカンの会としてお会いしなければ」

 ということになりました。

 今はもう柏原病院を去られて半年以上も経つということで、ラスカル嬢は持ち前の行動力で直接いきなり病院に手紙を送るという形で、西尾先生と連絡を取ってくれました。

 現在は、奈良医科大学の救急を担当されているということで、学生に教えたり、研究をしたり、大学病院の救急病棟で救急患者を見たり、朝早くから真夜中まで激務をこなされていらっしゃいますが、私たちのために休息のための時間を割いてくださって、インタビューにお答えいただきました。


 初めてお会いした西尾先生は、白衣姿で私たちの前に颯爽と現れ、すこし栗色に染めたサラサラの髪に黒目がちの瞳、まるで王子様のような容貌で、ラスカル嬢いわく「柏原病院に勤務していたころは、患者の子供のママたちにファンが多かった」というのもうなずけました。年齢よりも随分お若く見えるのは、今も救急の現場で緊張感に包まれながら現役医師として働いていらっしゃるからなんだろうなと感じました。

マルチとしての哀切

 まずはじめに、西尾先生は今までの略歴を語ってくださいました。  

 自治医科大学をご卒業されてから、二年間全科ローテートをし、大学病院、市内病院、自治体病院など様々な病院を回られ、時には奈良天川村など過疎地の診療所で一人医長を務められたり、アメリカに渡られたりと、村立、町立、市立、県立、国立、大学、海外、労働省でHIVの臨床・・・幅広い臨床経験を積み重ねて来られました。

 私の大好きな大ヒット漫画でドラマ化もされた「Dr.コトー診療所」のコトー先生のように、ありとあらゆる症例に接し、限られた医療資源の中で最善を尽くすという高度な判断力と技術を要する自分の能力の限界との闘いのような臨床を続けて来られた方であることがわかりました。

 私たち一般患者にしてみれば、まさにゴッドハンド、カリスマのような方だと思うのですが、西尾先生のお話を聞くと医師の世界の中では少し事情が違うようです。


 西尾先生のように幅広い臨床経験を持つ医師はもちろん医療の現場では大切な人材なのですが、どうしても若い医師の間には西尾先生のようなマルチ(万能医)には憧れつつも「専門医志向」というものがあり、心臓病手術なら心臓病手術、消化器系の癌ならば消化器系の癌と、スペシャリストを目指す傾向が依然として強いらしいです。

 患者の間でも、スペシャリスト志向というものが厳然としてあって、ある疾患にかかってしまった場合、その疾患に詳しい専門医を探してしまいます。

 でも、これからの日本の形を考えると、スペシャリストだけではなく、ジェネラリストもバランス良く増やして、専門分野以外は極端に経験が浅いというよりどんな疾患にも最前線で対応するという「かかりつけ医」の育成は急務だと思うのですが、流れとしては「マルチ」よりも「スペシャリスト」の方が評価をされるという現実もあるので、専門医を目指す医学生も多いのだそうです。
 近所の病院や診療所でかかりつけ医を持ち、多くの優秀なお医者さんたちに住民たちの最前線で生活習慣病などを予防する未病医療や、癌などの早期発見に尽力してもらうほうが私たち患者のメリットも大きいのですが、医療に頼るのは「もしもの時」が多いので、結果的に専門医に診てもらうことを望んでしまう・・・

 脳腫瘍を内視鏡手術で切除できるとか、拡張型心筋症のバチスタ手術の名手とか、テレビに特集されるような「神の手」を持つ医師たちはもちろん素晴らしいのですが、患者の身近で接してくれて、患者の生活の質の向上に精力を傾けてくれている偉大なるジェネラリストたちに私たち患者の側から深く敬意を払いたいと強く思いました。

西尾先生はあくまでも謙虚に「結局、僕たちの力不足なんですよ」とご自身の力不足を述べられます。
 でも、もっと構造的な問題がそこには横たわっていると感じました
病院勤務医の過酷な現状

 西尾先生の話では、近年の社会保障費大幅削減の霞が関の流れの中で、厚労省の方針として医療費削減という命題があり、今の医療行政の根幹には医療費の総量規制という大きな抑圧があり、そのひずみが病院の勤務医の労働環境に重くのしかかっているのだそうです。


 西尾先生は一人医長だった僻地勤務をはじめとして、診療所、中規模病院、様々な規模の病院で勤めて来られました。

 最近、「救急車のたらい回し」なんてメディアが現場バッシングをするが、医療費削減の影響で、救急の現場でもマンパワーがぎりぎりの状態であることは事実なんだそうです。

 でも、救急医療には余力が必要だと西尾先生は訴えます。

  「マンパワーがぎりぎりの状態では、とてもじゃないけと急な患者を取ることなんてできない。でも、医療費削減の原理で現場の人員は削られる。現場は必死で頑張っていますが、もう限界なんです。それで受け入れを拒否するとメディアがバッシングをする・・・。やりきれません」


 問題の根幹は、ベッドが足りないというよりも、急性期医療の現場のマンパワー不足にあるようです。

 また、同時に能力の評価が報酬に結びつきにくい構造にも、医師のモチベーションがなかなか上がらない要因があると西尾先生は語ります。

 「人気が集まっていながら、内実は能力も技術力も低いレベルの医師なんていくらでもいる。頑張って能力を高めることでちゃんと評価される土壌が医師の世界にあるのであれば、もっと頑張れる医師はいると思います。でも、そこに医療費削減の壁があって、医師の報酬が一律に線引きされていて、不当に低く抑えられている現実があります。一年目の研修医が診るのとベテラン医師が診るのと、まったく能力は違うのにもかかわらず、診療報酬は同じですからね・・・」  

 また、非常に興味深いご意見を伺いました。


 西尾先生がまだ駆け出しの医師だった昭和のころ、奈良では55歳以上の医療費は無料だったそうです。そして、診療報酬も今のように抑制の方向ではなかったため、医師、患者、双方に心の潤いがあったのだそうです。

 「昔はもう、ただただ感謝されましたからね」

 『医療は与えてもらうもの』・・・患者のそういう意識が医師への限りない感謝の気持ちに結びつき、毎日顔を合わせる患者さんからも、いつも感謝の気持ちを伝えられたのだそうです。今は時代が変わり、医療にはコストとリスクがつきまとうものとして、患者は消費者としての意識で医療者側と向き合うことが増えたように思うと、西尾先生は憂います。


 「それでも、僕らくらいの年代の医師の場合は、まだ感謝をされたころの記憶が残っていますからね。まだ、心に余裕があるんですよ。
わがままを言う患者さんと出会っても、『この人が怒りっぽくなる理由はどこにあるんだろう』と推し測って対応したり、一呼吸おいて患者さんと対峙することができます。でも、今の若い医師たちは、とにかく感謝されたという時代を知らないわけですからね。気の毒だなと思いますよ。患者からの怒りを真面目に受け止めて真剣に悩む。心に余裕がないのは当たり前です。」

 若い医師が患者さんとのやりとりにある種のコミュニケーション恐怖を感じているベースには、「無条件の感謝を受ける経験の有無」があるのではないかという西尾先生の分析はとても深いと思いました。

 感謝の気持ちを伝えるということは、若い医師の心を育てる意味合いもあるのだなと感じました。

ゆりかごから墓場まで

 小児救急も担当される西尾先生は、残念ながら子供の命を救うことができなかったときに、ご遺族に必ず言う言葉が二つ、あるそうです。


 <もう少し早く異変に気が付いていたとしても間に合わなかった>
 
 <お子さんは苦しまれずに亡くなられました>


・・・涙が出そうになりました。

 残されたご遺族のために、できることならば人生の重荷を少しでも軽くしてあげたいという西尾先生の切実な思いが感じられました。

  軽症でも救急を訪れる患者さんが救急医療を圧迫しているという話もあるのですがとお尋ねすると、
「子供の病態は急変しますから、一番お子さんの側にいらっしゃるご家族が心配ならば、どうか遠慮なくお越しください。ただ、混み合っていて長い時間待たされたり、点滴や注射などの処置の時にわが子が泣いたりした折りに、大騒ぎをされる親御さんがいて・・・。それは、ちょっと困りますね。そこは控えていただけたらと思います。

 子供の血管は大人よりも細いというだけでなく、泣いた瞬間に血管が収縮して針が入らなくなってしまうことがよくあるのだそうです。「前の時はすぐに入ったのに」というクレームは間違っていて、子供の血管の状態はその時々によって変化し、針の入りやすさも変わるのだそう。
 もちろん研修医など、技術的なレベルがまだまだというケースもありますが、注射がうまく入らなくて親がイライラしているのを感じると、ますます焦り、手元がおぼつかなくなるという悪循環に陥ることもままあるそうです。
 処置の際にはそっと見守る・・・この姿勢が肝要なのだそうです。

 そして、今の厚労省が導く介護のあり方についても、西尾先生はご自身の意見をお持ちでした。
 ご自身の幅広い臨床経験から、「在宅介護」と「施設介護」は個人の人生観によって選択できる多様性を大切にしなくてはならないと主張します。 医療費削減の流れから、いろんな形で「在宅介護」への流れが急速に進んでいます。

  しかし、在宅介護は介護をする家族の負担が重く、介護される本人の尊厳も脅かされるという負の側面もあります。そのために介護保険があって、外部の手を借りた様々な手当てがあるわけですが、それもとても十分な状況とは言えない。やはり、介護者の負担によるところが多いのが在宅介護の実情であることは事実です。
 それでも、自分の愛する家族に看取られたい、愛する家族を看取りたいという願いは尊く、その思いは尊重される世の中であるべきです。
 ただ、一方で、出来れば施設に入って、基本的には自分でできるところまでは自分で生きて、無理になれば第三者のお世話になりながら、時折家族が施設に訪ねてくれるという、家族に負担をかけない選択をしたいと思っている人の心のベースにも家族に対する愛情があるのです。

  どちらも、愛情がベースの選択です。 だからこそ、個人の人生観の問題になるわけです。
 いくら国家財政がひっ迫しているからといって、そこは国家が介入して誘導してはいけない部分ではないかと西尾先生は語ります。

 お話を聞いていて、国民のニーズに合わせてバランス良く、「在宅」か「施設」かを選べるようになるといいなと思いました。今は施設に入りたいと思っても、利用料金がとんでもなく高かったり、待機人数が途方もなく多かったりするそうです。

 使わなくなった学校とか、厚労省や旧郵政省が作っちゃった箱モノを有効利用できそうな気がするんだけどなあと想像したりしました。

医師という職業の素晴らしさ

 「人の生き死にに立ち会える、そんな瞬間に巡り合える仕事はそうないので、やりがいを感じます。」  

 西尾先生は瞳を輝かせて、そう語ってくれました。さらに、

「僕はね、ものぐさなんです。だからね、医師という仕事ほど、楽なものはないと思っているんです。 肉体的にも精神的にもきついけど、ただ僕たちは『目の前の人のため』に働けるでしょう?『誰かのために働くことができる』 というのは実は僕にとっては(心情的に)楽なことなんです。そんな偉そうなもんじゃないんです。」


 揺らぎのない信念。迷いのないまっすぐな姿勢。

 こういう思考ができるからこそ、命の最前線で自己犠牲をものともせずに働けるのだなと思いました。

 いま、救急医療に対する自治体からの補助が減っているケースが相次いでいます。多くの病院勤務の医師たちは、時間外手当もなく、サービス残業が当たり前で、担当の患者さんの状態が心配で土日に出勤したとしても休日出勤にならないどころかボランティア扱いなんだそうです。

 現場の医師の思いだけで成り立っている。これが、実情です。

 若い人たちが感謝もされず、給料も安いとなると・・・。この二年間、研修医が一人も奈良医科大学の救急に来てないのだそうです。悲しいかな、必然かもしれません。 私たちの命を緊急で救ってくださる現場の悲鳴が聞こえました。

 最後に、どういう思いを持って医師という仕事を続けていらっしゃるのか、その思いをお聞きしました。

 「自分の生き様が自分の家族の記憶にどれだけ残るかです。思いだけでやるのが自分にとっては楽なんです。この仕事を辞めたいと思ったことはありません。」

 ただただ、胸を打たれました。

 帰り道にラスカル嬢と二人、「西尾先生にうちらも看取ってほしいよね」と無茶な願いを持ちました。

<シックハウス症候群の恐怖>2009.06.08
三月に「アレルギーのマーチと向き合って」という本を出版してから一か月ほど経ったとき、兵庫県のとある市のA医師より私のもとにメールが届きました。


『我々家族にはアレルギーやアトピーなんてまったく関係ないものと思っていました。ときどき救急でひどいアトピーや喘息のお子さんが夜中に運び込まれるのを診てはいましたが、化学物質過敏症やらシックハウスなどというものにもまったく無関心といってよい状態でした。自分の子供たちがシックハウスにかかるまでは・・・』

A医師からのメールには、小さな二人の息子さんたちがシックハウス症候群に襲われた理由と行き場のない怒りが切々と綴られていました。

メールによれば、上の息子さんに酷い皮膚炎が発症したタイミングと、業者が自宅をリフォームした際にフローリングに揮発性の溶剤を不適切な工程で施工し不用意に空気中に化学物質を浮遊させていた時期が重なるとして、A医師はこれはシックハウス症候群であると認識されたそうです。

シックハウス症候群というのは、新築やリフォーム後の室内の空気汚染によって引き起こされる病気の総称をいいます。
家を建てるときには、建材を加工したりクロスを貼ったりと様々な工程で大量の揮発性化学物質が使われています。
それらは、建材の防腐剤や防虫剤、接着剤として家のあらゆるところで使用され、空気中に成分が放散されています。

たとえ微量であっても極めて体に有害な成分が含まれている場合もあって、建築基準法で種類や量が規制されています。

規制されている主な化学物質に「ホルムアルデヒド」がありますが、他にも様々な揮発性溶剤による健康被害が報告されています。
中には、現在まだ規制されていない物質による健康被害も見られ、化学的知見が十分になされてはいない分野の病気でもあります。

症状としては、新築、改築直後の家に住み始めて数日後〜数か月以内に、喉に痛みを感じたり、目がチカチカしたり、鼻の調子が悪くなったり、頭痛・動悸・倦怠感を覚えたり、蕁麻疹や湿疹などの皮膚症状が発現したりと多岐にわたります。
症状の種類や強さは個人差が大きく、全く症状が出ない人から、その場所には住めないほどに悪化する人まで様々です。


私も何度かシックハウス症候群に悩まされたことがあります。


元々アレルギー体質ですから、元来持っているアレルギーが突然悪化するという形で襲い掛かります。

コントロール出来ている状態の喘息が新しい建物に移って数日後に悪化したり、刺激臭のする空間にしばらくいると蕁麻疹で顔がぱんぱんに腫れてきたり・・・。
どこでどんな症状に襲われるかわからないという恐ろしさがあります。

自分自身の体験からA医師のお子様たちの状態が気にかかり、A医師のクリニックを訪ね、詳しくお話を伺いました。  


兵庫県にあるA医師のクリニックは、午前診と午後診の間の時間帯だったために静謐に包まれていました。
内科・外科・消化器科と看板には標榜されてあり、地域のかかりつけ医として在宅医療にも取り組んでいらっしゃるクリニックです。
何通もメールは交わしたもののA医師とは初対面で私自身も少し緊張していたのですが、A医師は私の急な訪問を温かく迎えてくださいました。

小さな息子さんが二人いるというパパらしい空気を漂わせていらっしゃる、穏やかで物腰の柔らかな方でした。

さっそくシックハウス症候群のお話をお聞きすると、表情を曇らせ、時にリフォーム業者に対する怒りをにじませる場面もありました。

そもそもA医師は、子供の健康を非常に意識されていて、「健康被害になる可能性が低いから」という知人の勧めであえて「新築」を建てるのではなく、「中古住宅」を購入してそれを「リフォーム」してマイホームにしようと思ったのだそうです。
「新築」にはトラブルがつきもので、シックハウス症候群も発症しやすいと聞いたのだそうです。

そして、知人の紹介でリフォーム会社に改築を依頼しました。 購入した中古物件に家族と移り住んだ状態で、現住しながらリフォーム工事の工程に従って部屋を移っていくという選択をとられたそうです。

その改築工事の工程の中で、フローリングの床材の表面のつや出しコーティングに使う物質に、揮発性の物質がありました。

この物質は扱い方を間違えると、空気中に化学物質を放散してしまう溶剤のため、施工に適した温度や乾かすために置く時間など細かな使用方法がありました。
しかし、業者は工程を急いだのでしょうか、施工に適した温度とはいえない低い気温下で施工を実施し、乾くに十分ではない時間を置かずに乾ききらない状態で当該の溶剤を塗り重ねたため、長期間に渡り大量に空気中に刺激臭のする化学物質が放散しつづけられたそうです。  

その結果、ご家族が次々に不眠や目の粘膜の異常、頭痛などを訴えたため、しばらく家から避難しようとひと月ほどご実家に移られます。
その時にはもう、上の息子さんの肌には異常が出始めていました。 肘の内側に赤い発疹がいくつもできていて、湿潤部もありました。

赤くぱっくりとさけている発疹もいくつもありました。

それまで、上の息子さんの肌質が乾燥肌であるくらいで、特にアトピー性皮膚炎を意識したことがなかったそうで、その発疹を発見した時にA医師は驚いたのだそうです。
でもその時には、はっきりとシックハウス症候群との関連を意識されてはいませんでした。

ご実家で過ごしているうちに、上の息子さんの湿疹は徐々に軽快していきました。

幼稚園も始まるからとリフォーム工事の終わった自宅に戻られたのですが、戻った途端、上の息子さんの湿疹がみるみる悪化していったのだそうです。

肘の内側だけではなく、膝の裏、腹部、首の回り・・・いたるところに痛々しい赤く組織液の滲み出るような湿疹が現れました。

下の息子さんにも発疹は現れ始めて、さすがにA医師は業者に対して不適切工事の追及をされました。

しかし、業者は代金の支払いを求めて裁判所に提訴。

納得いかないA医師は応訴。民事裁判で、改築工事の工程に瑕疵はあったのかなかったのかを争うことになりました。

現在は高裁で審議中です。


健康被害は確かにあるのに、法律で規制されていない物質に反応してしまっている場合は何の救済措置もありません。
法律で規制するまでには、いろんな研究をして、実証を重ねていかなくてはならないので、途方もない時間がかかるのでしょう。


「うがった見方かもしれませんが・・・」とA医師は語ります。


「シックハウス症候群や最近ではシックカー症候群(新車に乗った時に車内に充満している化学物質に反応して、シックハウスと類似の症状が発現すること)は確かに増えていると思います。

でも、なかなか規制が遅々として進まないのは、政治家や官僚の「業界」への配慮があるのではないかと思ってしまいます。」



・・・真偽のほどはわかりませんが、重い言葉だなと感じました。
シックハウス症候群の人が、その家に住みなれたり、換気が十分になされたことで物質の濃度が薄まったりしたことで、症状が軽快することがよくあるんですが、A医師のお子様達も同様に症状が治まってきたとお聞きして、ホッとしました。  



「特異体質だから仕方がないって言われると、やるせない気持ちになります。

親だから、見えない敵からも子供を守ってやりたい。


こんな気持ちになるのは特別なことでしょうか・・・」


A医師は今後は医療者としても、積極的にシックハウス症候群やアレルギー疾患について考えていきたいと語って下さいました。

大変な経験だったとは思いますが、患者の親として、医療者として、これからも苦しまれている患者さんの心に寄り添ってくださるのではないかと思いました。

<尼崎の地域医療・最前線のかかりつけ医に密着>2009.05.24
 体の調子がおかしくなった時に、まず最初にかかる医療機関は「地元のお医者さん」です。
日ごろより診察を受けたり予防接種を受けたりしているので、医師や看護師とも顔なじみになり、持病のことや慢性疾患の経過もカルテに残っているので、 自分の体の状態のことを一番よく把握してくれているところとも言えます。

全体的、総合的に体を診てくれる地域のお医者さんのことを「かかりつけ医」と言います。
癌や生活病を早期に発見してもらうためにも、こういった地域のかかりつけ医を持ってプライマリーケアをしてもらうことが肝要だと政府の指針にもあります。
 さて、そんなプライマリー機能を充実させるべく、複数のドクターがシフトを組んで365日24時間年中無休の診療体制を確立し、 外来診療から在宅医療まで途切れなく患者を診察、治療している画期的なクリニックがあります。

 それが尼崎にある「長尾クリニック」です。

 評判を聞きつけて、是非とも取材をさせていただきたいとお願いし、院長に密着取材させていただくことになりました。





取材を敢行したのは5月18日。
ちょうど新型インフルエンザの感染者が兵庫や大阪に増え始め、一斉休校措置などがとられ始めた日でした。

  クリニック事務長の山本さんにお話を聞くと、新型インフルエンザに関する問い合わせ電話が鳴り止みませんとのことでした。
発熱した患者が来たときには駐車場に車を停めてもらって、駐車場で診察するという措置がとられていました。
取材日の翌日には、診療所の外に特別な発熱外来が設置されることになります。

 山本さんによれば、新型インフルエンザ騒ぎが大きくなったからといって、特別患者の数が減ったとも増えたとも感じられないとのことでした。
心配で診察に訪れる患者と、診療所に来ることでかえって感染リスクが高まるのではないかと警戒して受診を控える患者の数が、もしかすると釣り合っているのかもしれません。  
長尾クリニックには平常時でも、午前だけで約200人、午後約100人、合わせて一日300人弱の外来患者が訪れるそうです。

さらに、午前午後の外来診療の合間や午後の外来が終わった後には在宅医療の患者を回りますので、一日に相当な数の患者を診察しています。
実際に、院長の一日に密着しましたが、そこには地域に根ざしたかかりつけ医としての想像を絶する働きぶりがありました。

午前の外来は、四人の医師が四つのブースに分かれて診察します。10人近い看護士たちが慌しく診療所の中を走り回っています。私は長尾院長のブースの中の隅っこで邪魔にならないように取材をさせてもらいました。
院長の机の上には、瞬く間に10冊以上のカルテが積み上げられていきます。 マイクで患者の名前を呼んで、患者がブースの扉を開けます。
そこから診察はスタート。

繊細に患者の状態を診てあらゆる角度から問診をし、迅速で的確な診断をすべく、診療ブースは緊迫感がみなぎっています。
後から後からカルテが積み重なり、クリニックの待合室には多くの患者が院長の診察を待っています。ですから、一人の患者を診る時間も必然的に限られてきます。
限られた時間の中で、どれだけ正確に病状を把握し、的確な診断をし、治療法を提示できるか・・・。

それこそ癌、糖尿病、リュウマチ、アレルギー疾患、季節性肺炎、鬱、ありとあらゆる疾患を抱える人が診療所には殺到しますから、医師には凄まじい知識量と即時の判断力が要求されるのだと改めて痛感しました。
癌を始めとする疾患の早期発見を見落とすわけにはいきませんから、呼吸をするのもはばかれるほどの緊張の連続です。
体だけではなく、心を診るということをモットーにしているクリニックのため、患者の心に寄り添うような質問も投げかけます。

「趣味はなに?」とか「田舎のご家族は元気にしていますか?」など、何気ない会話を交わすことで、一人ひとりの患者の生きるという行為に耳を澄ませ、患者の心の状態を把握し、患者を取り巻く看護状況に想像力を働かせている院長の姿勢が強く印象に残りました。
ぶっ通しで外来患者の診察をしている合間にも、院長の携帯電話にはひっきりなしに在宅患者や在宅患者の家族から電話がかかってきます。
その電話は緊急を要する案件も多く、救急車でクリニックに搬送させる指示を適宜出したり、さらに高次の救急専門機関へ繋いだりします。
外来患者の診察の合間に、救急搬送されてきた患者のベッドを訪れ、そこでも診察。
目まぐるしい時間が流れます。 圧巻だったのは、院長の想像をはるかに超えた激務に加え、完全に息を揃えて呼応するように補助業務を担う看護士たちの姿でした。
カルテを差し入れ、院長からの細かい指示に従い、検査、投薬、カルテの整理、クレーム対応、ありとあらゆるフォローをします。
スペシャリストたちが集い、チームワークを活かして、医療の最前線で戦っている眩いばかりの光景がそこにありました。


そして、午前の外来診療が終わると、通院することが困難な患者を対象におこなっている患者の自宅での医療処置やケアに出かけていた看護士やヘルパー、ケアマネージャーがクリニックに一旦戻り、院長への報告を細かく行うミーティングが開かれました。
ランチタイムには、スタッフが全員一つの部屋に集まってお弁当を食べながら、院長による「新型インフルエンザへの対応」についての説明会が開かれました。現在の国や自治体からの指示や、現場の状況、マスクなど医療資源の使用についてなど大切な伝達事項が次々に語られ、昼休みというのどかな雰囲気は全く感じられませんでした。






その後、休憩もなく、院長は自家用車に乗り込み、在宅医療を受けている患者を訪問するためにクリニックを飛び出したのでした・・・。
癌や難病などで、医師に積極的な治療法がないと言われたときに、できるだけ住み慣れた家で過ごしたいと考えて、在宅医療を選択する患者も多く、院長は患者の自宅で最期の看取りをすることが週に何度もあるそうです。
患者との密接な距離感、日常の生活や人生観にまで寄り添い、患者個人により適した医療を追求していくというクリニックの姿勢に胸が熱くなりました。 患者が医療を考えるにあたって、大切なヒントがたくさん詰まっているクリニックであると思いました。

継続取材をさせていただいて、今後もリポートをお届けしていきたいと思っています。

<新型インフルエンザ・パニックの現場に潜入>2009.05.18
病院はまるで「野戦病院」と化していました。

しかしながら、今が特別という訳ではなく、尼崎の長尾クリニックではいつもと変わらぬ風景でもあります。

午前午後、外来だけで合わせて300人近い患者が日々訪れるこのクリニックは、365日24時間対応する第一線のかかりつけ診療所です 。
まさに、地域医療を支える礎のような病院です。 新型インフルエンザ騒ぎで、ここ数日問い合わせの電話が鳴り止まないのだそうです。

合間に、緊急を要する患者からの助けを求める電話が混じります。 海外渡航暦のある患者は自己申請して、発熱外来のある病院に搬送されなくてはなりませんが、渡航暦を伏せて診察を受けに来る患者もいるそうです。 渡航暦があると判った段階ですぐに隔離されてしまうので、それが嫌なのでしょう。
まさに、医療の最前線では患者のモラルが問われています。 インフルエンザがA型であるかB型を粘膜組織から判定するキッドは、すでに数が尽きてきています。

タミフルも医療従事者に配布するための特別なマスクも数が限られています。 これらはすべて、個々の医療機関が備蓄しているもので、すでに底が尽きたと悲鳴を上げている医療機関もあるそうです。 新型インフルエンザに関する医療現場への国、県、市からの指示は錯綜していて、矛盾も数多くあるそうです。

結局は、現場の判断に任されているようです。


「阪神大震災のときのようだ」と現場の医師は嘆きます。


「また、神戸か・・・」という落胆と、「結局は現場に丸投げなんだよな」という憤りからです。
しかし、今回の新型インフルエンザはあなどれません。 なぜならば、毒性が弱いゆえに、本人の自覚がないままに発症し、感染させてしまっているケースがあるからです。
微熱程度しか熱が出ないケースもあるといいます。 ただし、感染力は強いため、しっかりと広がっていきます。
現在、感染者は100人を超えました。 しかし、現場の医師は 「その10倍はもうすでに感染している。

本人の自覚がないままに、すでに感染し、発症し、治癒しているケースもある。見えない敵と闘っているようだ」と嘆息しています。
ウイルスは感染を繰り返せば繰り返すほど、変異する可能性が上がるそうです。

最悪のシナリオは、猛毒性に変異することです 。

医療現場では、山場はこの秋と見て、長期戦を覚悟しています。 兵庫県下、大阪府下の相次ぐ休校・休園の措置は、感染の広がりを出来るだけ食い止めようとしている点は評価できます。 しかし、子供を預けて医療現場で働く看護師が窮地に立たされてもいるのです。
貴重な医療を支えるスタッフが、まさに板ばさみになっているという難しい問題でもあります。




<兵庫県立柏原病院の小児科を守る会のお母さん達にお会いして>2009.05.12
大阪からJRの特急と在来線を乗り継いで約一時間半、兵庫県の柏原町は緑豊かな山あいの静かな町です。
大阪府柏原市と兵庫県丹波市柏原町は同じ「柏原」でも読み方が「かしわら」と「かいばら」というように違います。
そんな兵庫県の柏原町に日本の医療を揺さぶる感動的な出来事が起きたのは今から二年前。2007年4月のことでした。

町から小児科のお医者さんがどんどん減っていき、兵庫県立柏原病院に二人いた小児科のお医者さんも、一人が病院長になったので実質一人だけになってしまいました。
丹波地区の子供達の命を一身に引き受けて懸命に頑張っていたそのお医者さんは、肉体的にも精神的にも限界を感じて「辞意」が心に浮かび始めていました。
ふるさとの小児科の危機を耳にした丹波新聞の記者が新聞にその危機を記しました。
そして、地元で子育てをしている母親達を集めて意見を聞いたのです。
「このままでは小児科がなくなりますけど、いいんですか?」と。それが、物語の始まりでした。

小児科が無くなっては大変だと、お母さん達は小児科を守る会を立ち上げ、署名を集めて県に危機を訴えました。
そして、お医者さんに「ありがとう」という感謝の気持ちを込めた寄せ書きを贈ったり、病院に「ありがとうポスト」を設置して患者からの感謝の言葉を募ったり…。
患者自身が医師の負担を減らすためにできることをやろうと、軽症の夜間救急受診を少しでも控えようと「コンビニ受診」をやめるために「病院に行く、その前に」というチェックシートを医療者たちと作成。
日ごろの診察はできるだけ地元のかかりつけ医にかかるようにして、病院と診療所との使い分けを患者自身が意識するように努めました。
活動資金はフリーマーケットで家に眠っていた不要な物を売って生み出しました。

母親たちが集まってみると、パソコンが得意なママ、絵を描くのが得意なママ、人をまとめるのが上手なママ、人の話を聞くのが上手なママ、手先が器用なママなど、みんなそれぞれに様々な得意分野を持っていました。
小児科を守ろうという一つの目標に向けて力を合わせていくうちに、現役で子育てに奮闘している母親達ならではのアイデアが溢れ出てきました。
「小児科を守ろう」と書かれたステッカーを作ったり、子育てサークルに飛び込んで医療についての話をしたり、思いは母親達の心を繋げ、地域の思いを一つにしていきました。

パソコンの得意なママが、悪戦苦闘しながら「県立柏原病院の小児科を守る会」の公式ホームページを立ち上げて四日目、なんと「厚生労働大臣 舛添要一」と書かれたメールが送られてきました。
余りにもびっくりして、初めはそのメールをいたずらだと思ったのだそうです。
でも、どうやら本物の大臣からのメールだったようで、後日、舛添大臣は柏原の町を視察に訪れ、守る会のお母さん達は手料理でおもてなしをしました。

普通のお母さんが立ち上がったという「県立柏原病院の小児科を守る会」のアットホームな活動は、頻繁にマスメディアに取り上げられ、テレビや新聞でも報じられるようになり、地域医療の深刻な現実に多くの人たちが関心を持つようになりました。
感動的なことに、守る会の姿勢に最も心を揺さぶられたのは、全国各地の小児科の医師達でした。
「こんな場所で働くことができたら、小児科医として幸せだと思います」 多くの医師が守る会の活動を賞賛し母親達のパワーに敬服しました。
医療側と患者側が共に手を取って歩み寄り、貴重な医療資源を守っていく。
その頃、私は「ムーブ!」という番組を担当しておりましたが、何度か守る会の活動のニュースに触れては感動し、いつか柏原の町のお母さん達に会ってみたいなあという思いを募らせておりました。

そして、現実となったのです。

「県立柏原病院の小児科を守る会」の公式HPにアクセスすると、代表の丹生さんより丁寧なお返事がありました。
5月12日にお母さんたちがランチ会を開くということだったので、合流させていただくことになりました。

当日、丹生代表が親切にも駅にまで迎えにきてくださいました。
そして、メンバーのひとり、岩崎さんのご自宅で丹生さん、中澤さん、岩崎さんの三人でランチを食べながら歓談しました。
みなさん、とても楽しくてほがらかなお母さん達で、すぐに意気投合させていただきました。

(4人のママと)

現在の活動の様子やここだけの苦労話など、胸襟を開いてお話いただき、熱いものがこみ上げてきました。
守る会のみんなで力を合わせて二年間、模索しながら会を運営してきたけれど、そこには多くの葛藤があり、努力があり、感動があり、戸惑いがあり、それでも懸命に走ってこられたんだということに頭が下がりました。
密度の濃い二年間を過ごしてたどり着いた境地は…
「ゴールのない活動なので、ゆるゆると、楽しく、わきあいあいと続けていくことだと思います。それぞれに家庭があって、生活がある。私達のポリシーは無理をしないことです。頑張りすぎると、ぽきりと折れてしまいますからね」
ママたちの言葉の重みをかみ締めるように聴き入りました。

四人でいろいろと話していたら、「守る会」設立のきっかけを作った丹波新聞の足立智和記者が合流。
鈴木敦秋さんの「小児救急」の文庫本

amazonなどでも購入可能。 こちら

あとがきに書かれてある足立記者の姿はまるで、救世主。
今では全国を飛び回り、医療崩壊をテーマに講演活動をしているという有名な人物でもあります。
私の頭の中では勝手に、渋い感じのとっつきにくい敏腕記者さんをイメージしていたのですが…
(足立記者と)

足立記者もここに来ると聞いて、私は思わず「嬉しいです!お会いしたかったんです」と三人に言うと、「え?智和さんと??」と意外なくらい驚かれました。しかも、智和さんと、下の名前で呼ばれていたのです。
一体どういうことなのかと思っていたら、突然、足立記者は岩崎家の呼び鈴を鳴らさずにのっそりと家に上がってきていました。
「いつも勝手に上がるんですか?」と私が驚いて岩崎さんに尋ねると、
「もうすっかり、家族みたいになって」
「え?幼馴染ですか?」
「いえ、二年前に初めて会った人たちばかりです」
そこには、なんだか都会ではありえない、温かな繋がりが築かれていました。
知り合った年月ではなく、人に対する温かさとか人情とか、大事なものが詰まっている感じがしました。

「智和さん」は実に人懐っこい笑顔で挨拶をしてくださいましたが、おしゃべりもそこそこに、キッチンの隣にある小部屋へ。
岩崎さんの自宅は勝手知ったる我が家というような風情で、智和さんは直前まで取材していた元阪神タイガースの川藤さんがテレビの企画で丹波に田植えをしにやってきたという記事を、文香さん宅のパソコンでもくもくと打ち込み始めました。
そして、私たちが話し込む中、智和さんは時折「守る会」の補足説明をしてくださいました。
同じ年であることがわかり、すっかり意気投合させていただきました。
三人のお母さん達の飾らない姿、そして「智和さん」の佇まい…
すっかり全国的に有名になってしまった「小児科を守る会」ですが、「地域で生きる」「自然と共に生きる」ことの大切さを、染み入るようにじんわりと感じさせていただいた貴重な一日でした。